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モスクワ版「1984年」の流刑地

 ロシアの反体制派活動家アレクセイ・ナワリヌイ氏は現在、モスクワから東部100km離れたウラジーミル州ポクロフ(Pokrow)にある流刑地(IK-2)に収監されている。独週刊誌シュピーゲル(2021年3月20日号)は同氏の近況を報告する「レット・エリアで」(In der roten Zone)という見出しの記事を掲載している。

ロシア連邦安全保障理事会にビデオ参加するロシアのプーチン大統領(ロシア大統領府公式サイトから、3月26日)

ロシア連邦安全保障理事会にビデオ参加するロシアのプーチン大統領(ロシア大統領府公式サイトから、3月26日)

 ナワリヌイ氏によると、同刑務所では囚人への暴力など物理的な圧迫はない代わりに、囚人に対して徹底した監視と、心理的、精神的暴力がまかり通っているという。同氏は「モスクワ近郊にこのような強制収容所が存在するとは考えたこともなかった」と証言している。

 ナワリヌイ氏は昨年8月、シベリア西部のトムスクを訪問し、そこで支持者たちにモスクワの政情や地方選挙の戦い方などについて会談。そして同月20日、モスクワに帰る途上、機内で突然気分が悪化し意識不明となった。飛行機はオムスクに緊急着陸後、同氏は地元の病院に運ばれた。症状からは毒を盛られた疑いがあったため、交渉の末、同月22日、独ベルリンのシャリティ大学病院に運ばれ、そこで治療を受けてきた。

 ベルリンのシャリティ病院はナワリヌイ氏の体内からノビチョク(ロシアが開発した神経剤の一種)を検出し、何者かが同氏を毒殺しようとしていたことを裏付けた。英国、フランス、そしてオランダ・ハーグの国際機関「化学兵器禁止機関」(OPCW)はベルリンの診断を追認した。一方、ロシア側は毒殺未遂事件への関与を否定してきた。ベルリンで療養生活を5カ月余り過ごした後、モスクワへ戻り、即、拘留されたわけだ。理由は「執行猶予期間の出頭義務を怠った」というもので、禁固2年半余りの実刑判決が言い渡された。

 ロシア当局を激怒させたのは、①ナワリヌイ氏が昨年12月21日、ロシアの安全保障当局者になりすましてベルリンから電話し、自身を殺害しようとしたロシア連邦保安庁(FSB)工作員から犯行告白を聞き出し、その内容を公表したこと、②同氏のグループがプーチン大統領の豪華な宮殿(推定1000億ルーブル)を撮影した動画を公表し、プーチン氏の汚職腐敗の実態を暴露したことだろう。

 シュピーゲル誌はナワリヌイ氏の刑務所(収容能力約800人)から出たばかりの元囚人に取材して刑務所の生活について聞いている。先述したように、囚人への物理的暴力はほとんどないが、心理的な暴力が強いという。テレビを長時間見るように言われ、その間目を閉じてはならない。毎朝、長時間外に立たされ、監視員の指令を受ける。全ての行動は監視され、至る所で監視カメラがフィルムを撮っている。ナワリヌイ氏は夜、何度も起こされる。目を覚ますと監視員が傍にいてチェックしているという。

 同刑務所の話を聞いていると、イギリスの小説家ジョージ・オーウェルの小説「1984年」を思い出す。ビック・ブラザーと呼ばれる人物から監視され、目の動き一つでも不信な動きがあったら即尋問される。何を考えているのか、何を感じたかなどを詰問される世界だ。そこでの合言葉は「ビック・ブラザー・イズ・ウオッチング・ユー」だ。

 人は嘘をつく時、表情、眼球、口周辺の筋肉に通常ではない動きが出てくる。それを見つけ出し、嘘を言っているのか、本当かを推理していく。その微妙な動き、表情を専門家たちは「マイクロ・エクスプレッション」(微表情)と呼んでいる。FoxTV番組「Lie to me」(嘘を言ってごらん)の世界がモスクワ近郊の刑務所で実行されているというのだ。

 そこでは思想警察(Thought Police)と呼ばれる監視員がいる。その任務は党のドクトリンに反する人間を監視することにある。例えば、党のドクトリンには「2+2=5」と書かれている。その計算が正しいと教えられる、それを受け入れず、拒否すれば射殺される。自由とは奴隷を意味し、戦争を扱う「平和省」と呼ばれる部門があり、「愛情省」は憎悪を扱う部門といった具合で、全ては180度意味が違う。言葉に別の意味を与えてロゴスを支配する。

 カナダのトロント大学心理学者ジョーダン・ ピーターソン教授は、「これを言ってはならない」といわれる以上に、「これを言わなけれならない」と強いられるほうが人間の心理に大きな圧迫を与える」と述べている(「J・ピーターソン「宗教抜きの倫理・道徳はない」2018年2月23日参考)。

 そして最後は、殴打されて潰れた顔で裸になって鏡の前に立たされ、「自分の姿を見ろ」と命令される。惨めな自分の姿をみて、残されていた全ての誇りをも崩れ落ちる。そして党の教えを受け入れる。それから射殺されるのだ。「1984年」の世界では自身の世界観、信仰を信じて、それに殉教することは絶対に許されないのだ。アウシュヴィッツの強制収容所で他の囚人のために自ら亡くなったコルベ神父のような殉教者は出てこないのだ。

 ナワリヌイ氏が収容されているIK-2(第2刑務所)の収容所はオーウェルが描いた「ディストピア」の世界に近いのではないか。囚人は他の囚人と会話できない。そして頭の中で考えている世界まで監視の手が届く。KGB(ソ連国家保安委員会)出身のプーチン大統領は自身の支配体制に障害となる政治犯をIK-2に送り、そこで囚人の人格を根底から抹殺しているのではないか。

 中国共産党政権は少数民族ウイグル人を再教育施設、職業訓練所という名目の強制収容所に集め、同化政策を実行している。一方、ロシアのプーチン氏はIK-2という心理的暴力を駆使した流刑地で政治犯を収容し、そこで人格改造を行っている。モスクワ版「1984年」の世界に収容されているナワリヌイ氏の身が案じられる。

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