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金正恩は恐怖独裁体制を維持したいだけ。そのために動いている

 北朝鮮の金正恩(キムジョンウン)朝鮮労働党委員長は三度も中国に行った。それは異例のことである。

なぜ、三度も中国に行ったか、それは金正恩が独裁体制を続けるのがピンチになつたからである。なんとか独裁体制を維持するために習近平に泣きすがったのである。三度目の中国訪問で金正恩は本音を口にした。

「経済制裁で大きな苦痛を受けている。米朝首脳会談を成功裏に終わらせたのだから、制裁の早期解除に努めてほしい」
経済制裁のために苦しくなったことを口にしたのだ。そして、習近平(シージンピン)中国国家主席に、「米朝首脳会談を成功裏に終わらせたのだから、制裁の早期解除に努めてほしい」と協力を要請した。はっきり言えば泣き付いたのである。

 金正恩は恐怖独裁政治に徹底している。徹底することができる大きな力は資金力である。北朝鮮の全ての富を金正恩一人が握って莫大な資金があるから独裁政治を維持することができる。金正恩が独裁支配できるのは北朝鮮の富を全て彼一人の物にするシステムがあるからである。そのシステムを39号室と呼んでいる。39号室をつくったのは金正恩ではない。父の金正日である。故金正日は権力拡大に向けた影響力を高めるため、1970年代に39号室を設立した。39号室は8~9の局に分かれている。

39号室
○通貨偽造や麻薬、武器販売など不法取引で資金を稼いでいる。
○朝鮮人参や宝石の原石など国中から集めてを販売する事業も行っている。
○39号室の大聖グループは金輸出会社である。スポーツ多目的車を運転する武装した男たらが全国の鉱山から集めた金をこの会社に運ぶ。
○ドイツ・フランス・クウェート、アラビア・ヨーロッパ・ロシアなど、全世界に出ている北朝鮮労働者の給料のほとんど搾取する。

なぜ、金正日は徹底した外貨独占仕組みの39号室をつくったのか。それには北朝鮮の独特の独裁国家の歴史にあった。
建国した時は将来に夢のある国家と思われていた

北朝鮮に朝鮮民主主義人民共和国を建国したのは金正恩の祖父である金日成である。国名に「民主主義」と「人民」が入っているし「共和国」だから、国名からは独裁国家であるとは想像することはできない。むしろ。農民や労働者の自由を目指した国家であると思ってしまうだろう。北朝鮮が国名通りの国家であったら韓国、日本、米国との対立はなかったはずである。対立しているのは北朝鮮が民主主義人民共和国ではないからである。

北朝鮮を建国した金日成は建国した時には朝鮮民主主義人民共和国と言えるような国を目指していただろう。彼はソ連の首相であったスターリンの影響を受けて、北朝鮮に朝鮮民主主義人民共和国という名の社会主義国家を樹立したのである。金日成はマルクス・レーニン主義者であったが、北朝鮮独自の国造りを目指してチュチェ思想を唱えた。

チュチェ思想は主体思想といい、同じ社会主義国家でありながら対立していた中国とソ連のはざまで、北朝鮮の自主性維持に腐心して、チュチェ思想を唱えるようになった。。

「チュチェ」は、哲学およびマルクス主義の用語「主体」を朝鮮語に変換したものである。「主体」とは、北朝鮮では「自主独立」や「自立精神」を意味する場合も多い。

「朝鮮で革命を行うために、我々は朝鮮人民の慣習と同様に、朝鮮の歴史や地理学も知るべきである。それらが彼らに適合し、彼らの生まれ故郷や祖国への激しい愛情を彼らに呼び起こすことを通じてのみ、我々の人民を教育する事が可能になる」
 「チュチェ思想」を掲げた金日成の演説である。素晴らしい演説である。金日成は、主体思想は「人間が全ての事の主人であり、全てを決める」という信念を基礎としている。チュチェ思想も素晴らしい。

 チュチェ思想は日本にも入って来たし、北朝鮮を理想国家と思う日本人も増えた。

 戦後の日本では、社会主義国の北朝鮮と軍事独裁国家韓国では北朝鮮の方が優位になっていた、朝鮮総連は北朝鮮を「地上の楽園」「衣食住の心配がない」と宣伝し、それに呼応した日本の進歩的文化人・革新政党・革新団体が繰り返し北朝鮮の経済発展の様子を伝え、在日朝鮮人に帰国の決意を促した。

社会主義国北朝鮮は『完全就職、生活保障』であると噂が韓国よりも北朝鮮への帰還希望者が増えた。

1970年3月31日に共産主義者同盟赤軍派9人が日本航空便よど号ハイジャック事件を起こした。それは日本における最初のハイジャック事件であったが、赤軍派が亡命したのが北朝鮮であった。北朝鮮が理想国家だと信じていたからである。
北朝鮮だけでなく、中国など社会主義国家は将来理想的な国になると信じる人間は多かった。

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第二次世界大戦が終わると次々と社会主義国が誕生した。ユーラシア大陸を席巻しているのは社会主義国であった。金正日率いる北朝鮮も前途洋々であっただろう。

金日成のチュチェ思想が目指した国を北朝鮮でつくっていったら何の問題もなかった。しかし、現実は違っていた。社会主義国家は理想国家ではなく逆に自由のない貧困な社会になっていった。

ベルリンの壁崩壊から始まる社会主義国家の崩壊
ヨーロッパでは民主化運動が高まっていき、ベルリンの壁の崩壊をきっかけに社会主義国家は次々と議会制民主主義国家になっていった。

ベルリンの壁崩壊
クレンツ政権のスポークスマン役を担っていたシャボウスキーは、規制緩和策の内容をよく把握しないまま定例記者会見で「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」と発表し、いつから発効するのかという記者の質問に「私の認識では『ただちに、遅滞なく』です」と答えてしまった。この発表は、東ドイツ政権内部での事務的な手違いによるものだとされる。この記者会見を観た東ベルリン市民がベルリンの壁の検問所に殺到し、殺到した市民への対応に困った国境警備隊の現場指揮官は11月9日の深夜に独断で検問所を開放した。11月10日に日付が変わると、どこからともなく持ち出された重機などでベルリンの壁は破壊され、その影響は世界的に広まった。

ハンガリー
ハンガリー人民共和国は1980年代初頭には既に経済の自由化や議会の複数候補制などの改革を進めていたが、1988年5月に社会主義労働者党(共産党)のカーダール・ヤーノシュ書記長が引退すると、社会主義労働者党内ではより急進的な改革を主張する勢力が実権を掌握するようになった。1989年2月に急進改革派は事実上の複数政党制を導入し、5月にはネーメト内閣がハンガリーとオーストリア間の国境を開放し、鉄のカーテンに穴を開けた。
1989年10月には、社会主義労働者党は社会民主主義政党のハンガリー社会党へと改組、さらに10月23日には新憲法「ハンガリー共和国憲法」が施行され、ハンガリー人民共和国は終焉した。

ブルガリア
ジフコフ長期政権が崩壊し、後任となったムラデノフらはあくまでも一党独裁制の枠内での自由化を進めようとしたがこれをきっかけに市民側のデモが活発化し、12月には党の指導性を放棄することや自由選挙の実施などを決定せざるを得なくなった。1990年の自由選挙ではブルガリア社会党(共産党が改名)が過半数を制して政権を維持し、ムラデノフが大統領となった。しかし、1990年6月になると前年にデモの武力鎮圧を示唆したとされるムラデノフの発言が問題視され、ムラデノフは大統領を辞任し、翌1991年に行われた2回目の自由選挙で社会党は下野した。

チェコスロバキア
ベルリンの壁崩壊を受けて、東欧の共産党国家の連鎖的な崩壊が始まった。チェコスロバキア社会主義共和国では、ポーランドやハンガリーのような予告された民主化の約束はなかった。しかし、ベルリンの壁崩壊に勇気付けられたチェコスロバキアでは、1989年11月17日に至り、民主化勢力を中心にデモやストライキ・ゼネストを度重なって行った。それらの事態を収拾できなくなった共産党政府はなし崩し的に民主化勢力との話し合いによる解決を模索することとなり、結果、両者は共産党による一党独裁体制の放棄と複数政党制の導入を妥結した。この「革命」では後のルーマニアのような流血の事態には陥らなかった。これを指してビロード革命と言う。

ルーマニア
ポーランド、ハンガリー、ブルガリア、チェコスロバキアでは国内の政権移譲が穏健に済んだのに対して、当初から国内の改革に全く否定的で共産党が政権の座に固執し続けたルーマニア社会主義共和国では、1989年12月16日に民主化革命が勃発し、治安維持部隊と市民の間で、衝突が起こり多数が犠牲となった上、12月25日にはルーマニア共産党の最高指導者であったニコラエ・チャウシェスクが処刑されて終結した。チャウシェスクの死体はテレビを通じて世界中に晒され、チャウシェスクの死によってルーマニア社会主義共和国は崩壊し、民主政体を敷くルーマニア共和国が成立した。

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1991年に ソ連は崩壊し、ロシアは議会制民主主義国家になった。ソ連時代にロシア支配下の国々も次々と独立していった。

ウクライナ・ベラルーシ・ウズベキスタン・トルクメニスタン・タジキスタン・アゼルバイジャン・アルメニア・グルジア・カザフスタン・キルギスタン・エストニア・モルドバ・ラトビア・リトアニア

1924年から社会主義国家であったモンゴルも1990年の民主化後に自由選挙による複数政党制を導入し、ソ連が崩壊した後の1992年にに新憲法を公布し、直接選挙で選出される一院制の国家大会議と大統領が並立する二元主義的議院内閣制(半大統領制)を採用した。

ソ連崩壊後も生き残った北朝鮮独裁国家
ソ連が崩壊してほとんどの社会主義国家が議会制民主主義国家に変わっていったが北朝鮮は社会主義を続けた。しかし、ソ連崩壊は北朝鮮に深く影響した。金日成に対抗するグループが現れ、グループはクーデターを起こそうと計画した。陰謀を知った金正日は多くのソ連留学経験者をKGBのスパイとして粛清した。

ソ連崩壊の後に起こった金日成による大量粛清は北朝鮮が民主主義人民共和国の国名のような民主主義ではなく。人民主義でもなく共和国でもない金日成の独裁国家であることがはっきりした。ただ金日成は国家を創設した人間であり国民の彼への信服は高かった。金日成独裁体制は存続したが、しかし、ソ連崩壊後は粛清をしないと政権を維持できない状況になっていったのである。

国家を樹立した金日成は健在であったから彼を中心とした政権はソ連崩壊後も安定していた。しかし、金日成は1912年に死去する。ソ連崩壊から11年後である。金日成の地位を継承したのが長男である金正日であった。

社会主義国家ではイデオロギーを優先するという暗黙の了解があり、血園関係の者が継承することはなかった。

ヨーロッパの社会主義国家は血縁関係者の後継を避けていた。政権トップのグループから最高指導者を選ぶのが社会主義の暗黙のルールであったが、北朝鮮では血縁の息子が後継者になったのである。金正日は禁断の後継をしたのである。

ソ連崩壊によって社会主義への幻想は消え、しかも金一族の独裁国家となった北朝鮮の金正日が自分の地位を維持するには支配権力をより強固にすることであった。父の金日成には建国した実績とチュチェ思想というイデオロギーによって権力を堅持することができたが、金正日には二つともなかった。金正日が権力を維持する方法は金力と粛清であった。

94年に金正日氏が金日成を継いだ際は、義弟の張成沢氏が主導して、古参幹部ら約2万5000人を粛清したという。1997年9月には経済失敗の責任を問うため党農業担当書記の徐寛煕(ソ・グァンヒ)を処刑した。

政権内で対立する者は処刑する代わりに仲間になる者は高待遇をしなければ金正日の地位を守ることはできなかった。配下の部下には高級な外車、貴金属、衣類、香水、酒や食品などの贅沢品を与えた。粛清と厚遇が独裁者金正日の地位保全策であった。

高待遇をするには大きな問題があった。北朝鮮は生産力が低い。部下を満足させるような品物は国内にはなかった。北朝鮮で手に入るのなら北朝鮮貨幣のウォンを与えればよかったが、品物のほとんどは輸入しなければならなかった。しかし、北朝鮮の貨幣であるウァンは世界には通用しない。輸入するにはドルが必要であった。ドルを獲得するには輸出が必要である。

蓄財した金で党幹部たちに贈り物をして、後継者として有力視されていた弟を蹴落とし、二代目としての地位を確立した金正日である。彼は元々蓄財に秀でていて、北朝鮮のトップになるとドルを手に入れるための機関をつくった。それが39号室である。39号室は国の全ての貿易を扱う機関である。金正日は39号室を利用して国内の外貨を独り占めしていった。その外貨で側近への贈り物を輸入したのである。

39号室が金正日の独裁支配を維持させたのである。

金正日の死によって39号室を引き継いだのが金正恩である。


「沖縄に内なる民主主義はあるか」より転載
http://hijai.ti-da.net/

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