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欧州社会は「アブラハム文化」だ!!

 まず、アブラハムから始まった3大唯一神教の歴史を簡単に復習してから、話を進めていきたい。

当方の仕事部屋から見えるウィーンの朝明け風景

当方の仕事部屋から見えるウィーンの朝明け風景

 ①ヤコブから始まったイスラエル民族はエジプトで約400年間の奴隷生活後、モーセに率いられ出エジプトし、その後カナンに入り、士師たちの時代を経て、サウル、ダビデ、ソロモンの3王時代を迎えたが、神の教えに従わなかったユダヤ民族は南北朝に分裂し、捕虜生活を余儀なくされる。北イスラエルはBC721年、アッシリア帝国の捕虜となり、南ユダ王国はバビロニアの王ネブカデネザルの捕虜となったが、バビロニアがペルシャとの戦いに敗北した結果、ペルシャ帝国下に入った。そしてペルシャ王朝のクロス王はBC538年、ユダヤ民族を解放し、エルサレムに帰還させた。イスラエルのユダヤ教の発展は、ペルシャで奴隷の身にあったユダヤ人に対し、ペルシャの当時のクロス王がユダヤ人の祖国帰還を許してから本格的に始まる。クロス王が帰還を許さなかったならば、今日のユダヤ教は教理的にも発展することがなかった(「ユダヤ教を発展させたペルシャ王」2017年11月18日参考)。

 ②イエスの復活後、誕生したキリスト教は今の世界宗教ではなく、ユダヤ教の基盤の上にあった。“第2のユダヤ教”のような趣があった。特に、イエスの義弟ヤコブと12弟子の1人ペテロにはユダヤ教の繋がりが深かった。彼らの世界もその視野もあくまでもエルサレムを中心としたものだった(「『原始キリスト教』の本流と傍系の話」2021年2月1日参考)。

 一方、パウロはユダヤ教の繋がりのない地域、人々への福音伝道に意欲を持っていた。ペテロとヤコブ、そしてパウロが集まった最初のエルサレム会議(西暦49年開催)での最大テーマは「非ユダヤ教徒がキリスト信者になるためには如何なる条件を満たしていなければならないか」だった。

 キリスト者たちは当時、ユダヤ教の“セクト”程度と受け取られていた。パウロ自身もキリスト教と言う新しい宗教を創設する考えはなく、ユダヤ教の刷新を目指していた節がみられる。西暦60年頃に亡くなったパウロには「キリスト信者が真のイスラエルだ」という思いが強かった。パウロにはユダヤ教との完全な決別といった意識はなかったという。パウロには、イエスの来臨が近いといった差し迫った終末観があった。

 西暦70年「エルサレムの崩壊」を経て、ローマでは小アジア出身のマルキオンらが出現し、旧約聖書は神の聖典ではないとし、福音書では「ルカによる福音書」とパウロの書簡だけがイエスの教義と一致する、という過激なキリスト教論を主張し、大きな影響を与えていく。そして「パウロ神学」は次第にユダヤ教と決別していく(「アブラハム家」3代の物語」2021年2月11日参考)。

 ③イスラム教の創設者ムハンマド(570年頃~632年)は、「アブラハムから始まった神への信仰はユダヤ教、パウロのキリスト教では成就できなかった」と指摘し、「自分はアブラハムの願いを継承した最後の預言者」と受け取り、イスラム教という新しい宗派を始めた。イスラム教の経典コーランもユダヤ教のヘブライ語聖書の内容を多く引用している。アブラハムはイブラーヒームと呼ばれ、モーセはムーサと呼ばれている。

 ムハンマドは西暦622年、生まれた地メッカから追われメディナに逃げたが、モーセがエジプトで奴隷生活をしていた約60万人のイスラエル民族を引き連れてカナンに向かって出国した「出エジプト」に倣って、ムハンマドの「出メッカ」(ヒジュラ)と呼ばれる。アブラハムが神に命じられて息子イサクを供え物にする「イサクの燔祭」は、イスラム教ではイサクではなく、イスラム教の祖先となったイシマエルが供え物となったと書き換えられている、といった具合だ。

 以下、イスラム教の歴史を中心に他宗派との関わりをみていく。

 ムハンマドが生まれたアラブでは宗派の違いより、部族間の相違が重要視された。アラブでは当時、多くのユダヤ人が住んでいたし、キリスト教徒もいた。彼らは部族の頭を中心に結束していた。だから、「宗派間」の戦いより、「部族間」の紛争が中心だった。

 ムハンマドを迎え入れたメディナにはユダヤ系の3部族が住んでいた。彼らの中には新しい教えを伝道するムハンマドをキリストの降臨のように受け取り、歓迎した。ムハンマドらイスラム教徒たちには当時、文字で書かれた聖典はなく、もっぱら口伝だったが、ユダヤ人は当時、既に文字で書かかれた聖典を持っていた。ユダヤ民族は「書籍の民族」と呼ばれている。そこでイスラム教はユダヤ人から聖典作りを学んでいく。豚を食べないとか、断食といったイスラム教の風習は全てユダヤ教から学んでいった。ムハンマドは630年1月、メッカを襲撃し、占領。その後、アラビア半島にイスラム教が急速に広がっていく。

 参考までに、ソマリア出身の著名な政治学者アヤーン・ヒルシ・アリ女史は、コーランではムハンマドのメッカ時代(Mekka)とメディナ時代(Medina)ではその語った内容は異なっている。ムハンマドは610年、メッカ北東のヒラー山の神の啓示を受け、イスラム共同体を創設したが、メッカ時代を記述したコーランは平和的な内容が多い。一方、ムハンマドは622年メッカを追われてメディナに入ってからは戦闘や聖戦を呼びかける内容が増えたという(「イスラム根本主義について」2015年12月3日参考)。

 アラビア半島からイベリア半島までその勢力を拡大したイスラム教派は718年、西ゴート王国を破り、イベリア半島を支配した。イスラム教の指導者たちはスペインにいたユダヤ教徒らの助けを受けてスぺインを占領していく。イスラム教がスペインを支配していた間、スペインでは天文学、数学など学問が急速に発展した。現地にいたユダヤ民族は1055年前までの時代を「黄金の時代」と呼ぶほど、ユダヤ学問や文化が栄えた時代だった。イスラム教帝国にとって医者や学者の多いユダヤ人は統治に必要な人材として重宝された。オスマン帝国時代に入ってもイスラム教指導者はユダヤ人の医者や学者を抜擢し、その統治のために使った。

 1492年、キリスト教国からの失地回復運動(レコンキスタ)でイベリア半島から追われたユダヤ人やイスラム教徒たちは北アフリカに逃げたが、そこでも暫くの間共存した。その後、イスラム教徒たちは北アフリカ、中東地域に定住し、ユダヤ人は英国、フランス、ドイツからトルコなど各地に散らばっていった。米国ではユダヤ人をその出身地でアシュケナージ系(ドイツ語圏、東欧諸国に定住したユダヤ人)とセファルディ系(北アフリカ、中東、スペインに定住したユダヤ人)に分けて呼ばれる。例えば、メーガン妃も出演していた米TV番組「SUITS」(スーツ)で主人公弁護士ハーヴィを演じたガブリエル・マクトはアシュケナージ系のユダヤ人だ。

 欧州社会はキリスト教文化と久しくいわれてきたが、3宗派の歴史を振り返ると、欧州の文化は、キリスト教、その土台となったユダヤ教、そしてスペインで花を咲かしたイスラム教がもたらした“アブラハム文化”というべきかもしれない。欧州の地スペインは当時、中東のバグダッドと並ぶイスラム教文化が最も栄えた地域だったのだ。

 アブラハムから派生したユダヤ教(長男)、キリスト教(次男)、そしてイスラム教(3男)の3兄弟の歴史を振り返る時、3兄弟が連携し、結束するならば、高度の文明が広がるのではないか、といった希望が湧いてくる。特に、ユダヤ教とイスラム教は常に犬猿の関係ではなかったのだ。パレスチナ問題を考える時、ユダヤ民族とイスラム教徒の和解は必ず実現できるという確信が生まれてくる。

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