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エドワード7世と「ユダヤの宮廷」

獨協大学教授 佐藤 唯行

新興大富豪が王の側近に
英社交界最上層への仲間入り

佐藤 唯行

獨協大学教授 佐藤 唯行

 英王室とユダヤ大富豪との蜜月関係はエドワード7世時代(1901~10)にピークを迎えた。王は彼らを側近として重用(ちょうよう)したため、世人は王宮を「ユダヤの宮廷」と揶揄(やゆ)したほどであった。選ばれし側近は国際色豊かな顔触れだった。南アの黄金王バイト、東洋のアヘン王サスーン、対日貿易のサミュエル、国際金融のロスチャイルド等、大英帝国のビジネスホットゾーンで巨富を築いた面々だ。

 彼らが招かれたきっかけは皇太子時代、母ビクトリア女王から疎まれ、一時公務から退けられたことによる(優秀過ぎる父アルバート公と比べられた結果であろう)。皇太子の情熱は競馬、狩猟、海外旅行に向けられるのだ。

国際情報源として重用

 陰気なバッキンガム宮殿に抗(あらが)おうと、自分の御殿に取り巻きを集め、陽気で派手な娯楽に興じ、強い仲間意識で結ばれてゆくのだ。人柄の良さ故に英社交界の中心でもあったエドワード。その取り巻きにユダヤ大富豪が抜擢(ばってき)されたことは、彼らが英社交界最上層の仲間入りを許されたに等しい。何と言っても「次期国王のまぶだち」なのだから。この現象は世界的にも珍しい。「最も民主的」と思われていた合衆国でさえ「社交界最上層300家族」の中にユダヤ人は一人もいなかったからだ。

 エドワードがユダヤを重視したのは、この時代がユダヤ大富豪の全盛期だったからだ。時代の寵児(ちょうじ)たちを重用したのだ。偏見が無く寛容な心の持ち主だった点も重要だ。側近の中にはユダヤ教徒であることを誇示する者もいたが、不興を買うことは無かった。それどころかエドワード自身が覚えたてのユダヤジョークを連発して座を盛り上げたそうだ。宮廷での催しはユダヤ教安息日と重ならぬよう、木曜の晩に組まれたほどだ。

 遊興三昧で有名なエドワードだったが、ただ単に遊び友達を側近にしたわけではない。英国の地位強化のため「栄光ある孤立」を捨て、他国との同盟関係構築に熱心な君主でもあったのだ。そのようなエドワードにとり、ユダヤ大富豪人脈は得難い国際情報源だったのだ。

 サスーン家の人々はいかなる外交官よりもインド人の心性を理解していたと評されているし、サミュエルは大の日本通だったからだ。エドワードは家柄が良いだけの旧貴族の中からではなく、世知にたけた広い視野を備えた新興大富豪の中に側近を求め、眼鏡にかなう逸材を集めた結果、ユダヤ人ばかりとなってしまったというわけだ。これは旧貴族にとり大変ショックだったに違いない。

 1858年、ユダヤ教徒の下院議員就任により、政治的権利が完全に解放されてから半世紀。最後までユダヤ人を拒んできた社会的障壁が前述の「社交界最上層へのエントリー資格」であり、「王の側近への登用」だった。ビクトリア朝時代、女王の側近にユダヤ人はいなかった(宰相のディズレーリはキリスト教に改宗したからこそ寵愛(ちょうあい)を得ることができたのだ)。

 けれど女王の長男エドワード7世は王宮の扉をユダヤ人に開いただけでなく、側近の多くをユダヤ人にしてしまったのだ。17世紀半ば、英国への再定住を許されて以来、歴代国王はおおむね友好的だった。わけてもエドワード7世は、ユダヤ人への寛容を促す上で、大きな役割を果たしたと言えよう。

栄光の日々は想い出に

 けれど厚遇は妬(ねた)みも招いてしまった。ヒレア・ベロックのような狭量な作家が著述活動を通じ、ユダヤ金権エリートを主要攻撃目標にしてゆくのだ。1910年、エドワード7世死去の直後、一枚の風刺画が世の注目を集めた。それはユダヤの側近たちが王宮控えの間に勢ぞろいし「これまでのように自分たちは王宮で歓迎されるのであろうか」と不安な表情を見せる作品だ。

 歴史的事実として彼らが冷遇されることはなかったが、新王ジョージ5世(1910~36)は亡父の如(ごと)き派手好みではなく、静かな生活を好む人物だった。何よりも若い王が親しい交わりをするには「側近たち」は年寄り過ぎたのだ。エドワード7世時代、王の側(そば)近く自分たちの同胞が集った栄光の日々は、英国ユダヤ人にとり懐かしい想(おも)い出となってしまったのである。

(さとう・ただゆき)

(サムネイル画像:Wikipediaより)

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