ワシントン・タイムズ・ジャパン

珊瑚海海戦で追撃断念、「実戦では無能」の烙印

【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(5)

孤高の海軍大将・井上成美(下)

初の空母同士の海上決戦、諦めが早いと批判集中

 昭和17年5月、ポートモレスビー上陸を目指し、陸軍部隊を乗せた攻略部隊がラバウルを出港するや、動きを察知した米軍は攻略部隊襲撃のため空母ヨークタウン、レキシントンからなる機動部隊を珊瑚(さんご)海に送り込んだ。これに対し空母「翔鶴」「瑞鶴」を基幹とする井上成美(しげよし)麾下(きか)の第5航空戦隊(原忠一少将指揮)は、米機動部隊殲滅(せんめつ)を期しソロモン群島から珊瑚海へ南下、ここに史上初となる空母対空母の海上決戦が展開された。

 日米互いに敵を求めて錯誤を重ねた後、翔鶴、瑞鶴艦載機の攻撃でレキシントンは撃沈され、ヨークタウンは大破、わが方の被害は「翔鶴」が中破、攻略支援部隊の軽空母「祥鳳」が沈没と戦闘は日本の優勢に終わった。だが安全を期して井上が早々と攻略部隊の引き揚げを決定し、肝心のポートモレスビー上陸作戦は中止され、戦略目標は達成できなかった。また米機動部隊への追撃も断念したため、諦めが早過ぎ、敵に食らい付く闘志が感じられないと、井上の指揮に軍令部や連合艦隊司令部から批判が集中した。

 戦場から離れたラバウルで借り物混合部隊の指揮を取らねばならなかった井上の事情や、熾烈(しれつ)な米軍の対空砲火など戦場の厳しさを把握していない軍中央にも問題はあったが、以後、戦局の悪化でポートモレスビー上陸の機会は二度と訪れなかった。追撃しヨークタウンに止(とど)めを刺しておれば、直後に実施されたミッドウェイ作戦の様相も異なっていただろう。また井上はニューギニアに目を奪われ、ガダルカナルへの米軍来攻を予測していなかった。

 開戦以来一連の作戦指導から、井上には「口は達者で理屈は多いが、実戦では無能」の烙印(らくいん)が押された。歯に衣(きぬ)着せぬ物言いでズケズケと軍中央を批判してきた井上への反発や憎悪が、多分に影響していた。後に井上が海軍大将に推挙された際、海軍で強い発言力を持つ伏見宮元帥は珊瑚海での戦いぶりから昇任に反対し、昭和天皇も嶋田繁太郎海相に「井上は学者だから、戦いはあまり上手(うま)くない」と語られた。この低評価が影響してか、1年余で指揮官職を離れ、昭和17年10月、井上は軍兵学校の校長に転出する。

兵学校で英語を重視、最後の海軍大将となるも退職

江田島の海軍兵学校(現海上自衛隊幹部候補生学校)

江田島の海軍兵学校(現海上自衛隊幹部候補生学校)

 三国同盟に反対した姿勢もさることながら、戦後、井上の評価を高からしめたのは武勲ではなく兵学校長としての教育であった。鬼畜米英が叫ばれる中、井上は“ジェントルマン教育”を掲げ、廃止するどころか逆に英語教育を重視し英英辞書の使用も促した。

 昭和18年、海軍次官として中央に復帰、終戦工作のできる男として米内光政(よないみつまさ)海相が白羽の矢を立てたのだが、国体護持の扱いなど米内と意見が相違し、最後の海軍大将となるも退職の途(みち)を選び横須賀に蟄居(ちっきょ)、終戦を迎える。早くに妻を、戦後は生活困窮の中で一人娘も失うなど家庭生活は薄幸であった。倹(つま)しい生活の中、近所の子らに英語を教えることが晩年の生きがいとなった。

 ところで、海軍の方針を批判し続け、指揮官としての評価も低い井上が、要職を歴任し海軍大将まで上り詰めたのはなぜか。組織の常識から言えば大佐止まり、それ以下の処遇もあり得たはずだ。米内の引きもあったが、やはりハンモックナンバー(学業成績)の力であった。海兵入学時1番、卒業時は2番だが首席が早く死去し、事実上、井上が同期の1番だ。海軍将校の昇任に絶対的な力を及ぼしたのが、この成績序列だ。

 井上自身は学業に励めと学生に説いたが、成績至上主義には強く反対した。兵学校長の時には、出世主義を煽(あお)ると歴代大将の額を全て外させている。しかし彼が批判したその点数主義で、自身出世を重ねたことは皮肉である。これを海軍の度量の大きさと見るか、組織硬直の弊と捉えるか、微妙なところだ。

井上の不幸、逸材を生かせなかった戦略不在の海軍

戦後、子供たちに英語を教える井上(井上成美伝記刊行会『井上成美』より)

戦後、子供たちに英語を教える井上(井上成美伝記刊行会『井上成美』より)

 高級軍人にもさまざまなタイプがある。戦に強い猛将、作戦立案が得意な参謀型、兵力整備や予算に精通した軍政家、政治家と渡り合える政治家タイプ等々。米内は政治家、山本五十六は軍政家。井上は単なる軍政家と見るよりも、視野の広さと柔軟でリベラルな思考から、学者あるいは文官官僚の素養に秀でた男であった。彼は本当に軍人になりたかったのか。貧困から進学を断念する若者の多い時代だったが、長兄のように帝大に進み外交官や学者の途を進むのが井上本来の選択肢ではなかったろうか。発言の辛辣(しんらつ)さばかりでなく、海軍という組織の論理と彼の発想や認識との位相、ずれの大きさが終生、井上を孤高にさせたように思える。

 しかし、国の進路を誤らせぬためには、井上成美のような幅の広い思考が日本海軍に必要だったことは疑いを得ない。井上をして海軍戦略、ひいては海洋戦略や国家戦略の策定に当たらせるべきであった。海軍戦略を考究するポストがあれば、逸材井上の才能は開花したに違いない。だが日本海軍には戦術、戦闘の教義、綱領はあっても、海軍戦略は不在であった。それを専門に研究する組織も、またその成果を政策に活(い)かす制度も無かった。正論を吐き孤立し、孤高の海軍人生を送らざるを得なかった井上は不幸だったが、逸材を活かせなかった海軍もまた不幸であった。

(毎月1回掲載)

 戦略史家 東山恭三

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