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貴重な文化財を守った台南市長 羽鳥 又男

【連載】台湾で祀られる日本人先覚者(14)

生誕100年を記念し胸像が贈られ、赤嵌楼に置かれている

貴重な文化財を守った台南市長 羽鳥 又男

台湾・台南市の地図

 「台湾の京都」こと台南市の代表的な史跡といえば、1652年にオランダ人によって築城された「赤嵌楼(せきかんろう)」が挙げられよう。原名は「プロヴィンティア」と称し、その後、鄭成功が台湾を占拠すると「東都承天府」に改名され、台湾全島の最高行政府となった。赤色の瓦(かわら)と煉瓦(れんが)でできた歴史ロマンを感じさせる風情ある建築物で、「紅毛楼」とも呼ばれ、「国家一級古跡」にも指定されている。

 その赤嵌楼の中に、ある一人の日本人の胸像が置かれている。日本による台湾統治が終わろうとしていた1942年4月から3年間、台南市長を務めた羽鳥又男である。この胸像はABS樹脂のメーカーとしては世界一の生産能力とシェアを誇る奇美実業を一代で築き上げた許文龍が制作したもので、羽鳥の生誕100年を記念して2002年に寄贈されたものである。

貴重な文化財を守った台南市長 羽鳥 又男

赤嵌楼(せきかんろう)の中に置かれた羽鳥又男の胸像(筆者撮影)

 1892年、群馬県中部にある赤城山南麓の小さな集落に生まれた羽鳥は、若い頃、地元の学校で教鞭(きょうべん)を執り、やがて台湾に渡り総督府中央研究所に勤務した。台湾ツツガムシ病を発見し、マラリア防疫にも努め、台湾医学界に名を馳せていた親戚筋に当たる重郎を慕ってのことだった。

 重郎は又男よりも21歳年長で、又男は羽鳥家の本家筋、重郎は分家筋に当たる。その後、昇進を重ね、50歳の時に台南市長に就任した。

愛の行脚で信仰実践、赤嵌楼を修復し最古の釣り鐘も救う

 この間、羽鳥は、内村鑑三、植村正久と並んで日本キリスト教界の三大巨人の一人に数えられた海老名弾正の説教に感銘を受け、クリスチャンとなり、台湾のYMCA(キリスト教青年会)を足場に社会活動にも取り組んだ。「愛」の実践を伴う信仰は、羽鳥にとって人生の指針となった。

 羽鳥は「愛」をもって市長の職務に当たった。その象徴が「愛の行脚」と呼ばれるもので、羽鳥は夕方5時から8時までの3時間、市内をパトロールしながら、市内の史跡を見学して回った。この「愛の行脚」によって生まれたのが、羽鳥が市長として最も心血を注いだ文化財保護である。

 羽鳥は「孔子の教えは時空を超えて、後世に伝承していかなければならない」と、皇民化運動の一環として台南孔子廟(びょう)に置かれていた神棚を撤去し、同時に外観の修理、旧来の祭礼行事を復活させて、祭礼用具を修繕させた。今でも廟門の前に羽鳥の揮毫(きごう)による「臺南(たいなん)孔子廟」の標柱が立っている。

貴重な文化財を守った台南市長 羽鳥 又男

台南市の代表的史跡、赤嵌楼(筆者撮影)

 続いて羽鳥は赤嵌楼の修復に取り組む。長い間、補修を施さなかったため、あちらこちらに破損が見られ、中でも「学問の神」で知られる魁星爺を祀(まつ)る文昌閣は、いつ倒壊しても不思議ではないほど傷みが激しかった。

 しかし、当時は戦争真っ只中(ただなか)にあった。文化財保護に莫大(ばくだい)な資金を投ずる余裕はない。羽鳥は、当時、総督だった長谷川清に直訴した。「随分と反対の声が出ている。なかなか難しい」と難色を示す長谷川に、羽鳥は「大多数の民衆の心を掌握しない政治は、内に爆弾を抱えて戦っているようなものである」と言いながら、その必要性を力説した。羽鳥の情熱に長谷川も心を打たれ「君、やりなさい」と、これを了承した。

 羽鳥は、寺廟建築の権威で知られる千々岩助太郎を招聘(しょうへい)し、多数の名匠を総動員してプロジェクトチームを発足させた。工事は2年近くを要し、1943年12月に終了した。総工費は6万5000円に達し、台南市が半額を負担、残りは市民からの浄財で賄われた。

 「古鐘」と称されていた開元寺の釣り鐘が、戦時中の金属類供出令により供出された時のことである。この釣り鐘は台湾最古のもので開元寺のシンボルだった。そのことを知った羽鳥は「台湾の人々の信仰を軽んじてはいけない。この釣り鐘は台湾が誇る文化的遺産である」として開元寺への返却を命じる。まさに間一髪、ちょうど釣り鐘が溶解炉に投入されようとしていたところだった。

邦人引き揚げに尽力、羽鳥こそ「台湾の重要無形文化財」

 羽鳥は敗戦後も、しばらくの間、台湾に残り、台南市服務員として日本人の台湾からの引き揚げ業務に当たった。その数は官民合わせて2万5000人に及んだという。市長退任後も多くの市民から親しみを込めて「市長さん」と呼ばれていたらしい。

 羽鳥が帰国したのは47年1月のことだった。久しぶりに日本に戻った羽鳥は、国際基督教大学の開学準備に携わり、その後、庶務部長、評議員として大学運営に関わった。併せて、日本YMCA同盟委員、常務委員を務め、75年5月には東京YMCA名誉会員第1号となって社会奉仕にも汗を流した。その年の9月、羽鳥は83歳で召天した。

 台南市は戦前、高祖父の弟が造り酒屋を営んでいた土地でもあり、筆者にとっては思い入れが強く、これまで何度も足を運んでいる。2017年秋、羽鳥の足跡を辿(たど)るべく、赤嵌楼、台南孔子廟、開元寺を回った際、地元に住むガイド役の知人が羽鳥のことを「文化財保護に尽力した羽鳥こそ『台湾の重要無形文化財』である」と評していた。日本では無名の羽鳥だが、今日においても未(いま)だ台南市民に敬愛されていることが分かる。

 拓殖大学海外事情研究所教授 丹羽文生

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