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部下たちの命を救った警部、廣枝音右衛門

【連載】台湾で祀られる日本人先覚者(10)

台湾総督府巡査として台湾に渡り、地元民から厚い信頼を得る

部下たちの命を救った警部、廣枝音右衛門

台湾苗栗県にある獅頭山

 緑深い原生林に覆われた台湾苗栗県にある標高491メートルの獅頭山は、台湾仏教の聖地として有名である。「獅頭」という名前は、その山頂が獅子(しし)の鬣(たてがみ)に似ていることから命名されたらしい。そこには大小幾つもの寺院が点在している。この中の一つ「勧化堂」に廣枝音右衛門という日本人警部の霊が祀(まつ)られていることはあまり知られていない。

 1905年、神奈川県に生まれた廣枝は、逗子開成中学校、日本大学予科で学んだ後、30年8月に台湾総督府巡査として、日本が統治していた台湾に渡った。当時、台湾では競争率約100倍という狭き門だった超難関の採用試験に合格したのである。

 巡査となった廣枝は、多くの人々から厚い信頼を集め、敬愛された。海水浴場で溺れる人を発見すると、危険を顧みず自ら海に飛び込んで救助し、留置所の看守をしていた時は、職場の仲間に「君は妻子があるから、夜は君の分まで勤務してもいいよ」と言って、他人の仕事も率先して引き受けたという。この間、苗栗郡行政主任や大湖郡行政主任を歴任し、42年、警部に昇進して竹南郡行政主任となった。

海軍巡査隊の総指揮官となりマニラへ、部下たちから慕われる

 時は第2次世界大戦真っ只中(ただなか)にあった。間もなく廣枝は台湾の若き精鋭で構成される海軍巡査隊の総指揮官に任命され、43年12月、特務艦「武昌丸」に乗船しフィリピンのマニラへと向かった。巡査隊の役目は主に物資の運搬や補給、捕虜の監督、軍需倉庫の警備である。

 廣枝は、訓練に際しても先頭に立って部下たちに手本を見せ、常に慈愛の心を持って接した。叱るべきときは、決して感情的にならず、穏やかな口調で相手を諭すように注意を促したらしい。そんな廣枝を部下たちは心の底から慕った。

米軍の上陸で玉砕命令が出るが「生きて帰れ」と命令、責任取り自決

部下たちの命を救った警部、廣枝音右衛門

玉砕命令を拒否し、台湾人の部下の命を救った廣枝音右衛門(許国雄監修『台湾と日本・交流秘話』展転社刊より)

 45年1月、ついにアメリカがフィリピン北端にあるルソン島への上陸を果たし、翌月にはマニラ市内に突進してきた。一刻の猶予も許されないほど危機的状況に追い詰められた日本は、圧倒的劣勢の中、最後の抗戦を余儀なくされ、敵戦車に体当たりして玉砕する他なかった。決して助かることのない肉弾戦である。

 ついに廣枝の巡査隊にも「全員玉砕せよ」との突撃命令が下った。だが、廣枝は苦慮した揚げ句、突撃命令を拒否して、部下たちに投降するよう命じた。

 廣枝は「諸君は日本のために戦ってくれた。もう十分である。今、ここで命令通りに玉砕することは犬死にに等しい。祖国たる台湾には諸君の生還を心から祈っている家族がいる。この際、アメリカに投降して捕虜になってでも生きて帰れ。突撃命令に対する責任は私が取る。私は日本人だからね」と言い残し、壕(ごう)に入るや所持していた拳銃で2発、自らの頭部を撃ち抜き自決した。享年40歳だった。

 廣枝の発した投降の指示は、部下たちに次から次へと伝達され、一時、捕虜になったものの、全員が無事に故郷へと帰ることができた。廣枝の部下たちに対する惜しみない愛情が犇々(ひしひし)と伝わってくる。

生還者が勧化堂で英魂安置式行い慰霊祭を取手市にも「遺徳顕彰碑」

 その後、自らの命に代えて、部下たちの命を守った廣枝の恩に報いるため、生還した人々は感謝の気持ちを込め、「広枝廟」を建設する計画を立てる。しかし、当時は国民党政権の圧政下で、戒厳令が布(し)かれていたため、日本人を祀ることは不可能であった。

 それでも部下たちは厳しい制約の中、勧化堂に依頼し、廣枝を永代仏として合祀(ごうし)して、供養してもらうことにした。そして廣枝の自決から31年が経(た)った76年9月26日、勧化堂において英魂安置式が行われ、以来、慰霊祭が開かれるようになった。

 翌年には、廣枝の義挙を末永く語り継ぐべく廣枝家の墓所のある茨城県取手市の弘経寺に「遺徳顕彰碑」が建立された。これは、廣枝の部下たちによって結成された「元台湾新竹州警友会」の資金協力によって建てられたもので、そこには「ああ壮烈 義人 廣枝音右衛門」との題に次いで、彼の歩みが刻まれている。

今でも毎年慰霊祭を斎行廣枝の残した日台の 「絆のバトン」 引き継ぐ

部下たちの命を救った警部、廣枝音右衛門

廣枝夫妻を合祀(ごうし)する勧化堂(権田猛資提供)

 89年2月に、ふみ未亡人が76歳で逝去すると、同じく勧化堂に一緒に祀られ、祭壇に「天昇院法眞活道居士神位」「浮蓮院台譽妙往清大姉神位」との戒名が記された2人の位牌(いはい)が安置された。かつての部下たちが続々と鬼籍に入り、2013年9月21日の慰霊祭当日には最後の部下が急逝するも、今でも台湾に住む日本人たちによって毎年、廣枝の位牌が安置された9月26日前後に慰霊祭が斎行されている。

 主催団体「廣枝音右衛門氏慰霊祭実行委員会」事務局長の権田猛資は、かつて拓殖大学に学び、卒業後、台湾に留学した筆者の門下生である。今年30歳になる彼は「1年に1度の慰霊祭で勧化堂を訪れ、廣枝の霊前に手を合わせることで、仁義で結ばれた廣枝と部下たちとの強い絆に思いを馳(は)せている。今日の良好な日台関係の礎は、彼らの犠牲の下に築かれたものである。その志を紡いでいきたい」と語る。廣枝の残した日台間の「絆のバトン」は、しっかりと後世に引き継がれている。

 拓殖大学海外事情研究所教授 丹羽文生

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