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安保法制で日本を守れるのか?

 2014年に安倍政権は歴代内閣が「踏襲」してきた憲法第9条の解釈を変更し、その憲法解釈をベースにした平和安全法制(以下、安保法制)が昨年成立し、今年3月下旬に晴れて施行された。多くの保守派は、「これで、日本は守られる」と「万歳」した。しかし、私は複雑であった。

 当初、私も安保法制には手放しで賛成していた。しかし、防衛大学校に大学のサークルの関係で研修に行った際、個人的に安保法制について防大生に感想を聞いたところ、「正直、中身は理解しにくい」との返事が返ってきた。それではっとした。「そうか。安保法制の議論や条文の中身は、現場を意識していないのか」と。そして、今年2月に霞ヶ関で行われた防衛省主催の安保法制に関するシンポジウムを聴講してみた。参加者には、「防衛官僚肝いり」の資料が配られたが、いくら概説書といえどさっぱり理解できなかった。シンポジウムの基調講演をしている防衛官僚の講話を聞いても、必要性は理解できるが、自衛隊に何ができるのかさっぱり理解できなかった。私のような普通の大学生が理解できないのだから、防大生が理解できないのも無理はない。

 現在、卒業論文で「日本の安全保障政策と宇宙開発」について研究している。将来、国際宇宙法の研究者になるべく、大学院入試を意識した卒業論文であるが、その中では「集団的自衛権の行使になりうる自衛隊の衛星利用」について論じたいと考えている。そこで、現在は戦後安全保障史や憲法学、安全保障学などの基礎的内容を勉強中だ。そこで、「基礎的な考え方を整えよう」と思い、ある一冊の本を読んだ。憲法学者の倉山満氏の「軍国主義が日本を救う」である。「なんと過激な……」と思った人もいるだろうが、最初にこの本に出会ったときは、私もそう思った。しかし、内容は極めてリアリズムで客観的に我が国の憲法体制と安全保障体制の欠陥を指摘し、どうすべきかを提言したものであった。本書で学んだことをベースにして、私の意見を本稿で述べたいと思う。

 安保法制を施行するうえで、法的根拠となっているのが日本国憲法第9条の新たな憲法解釈である。これにより、「初めて日本は集団的自衛権を行使できるようになった」と安倍晋三総理は主張し、マスコミもそれに追随しているが、本当にそうだろうか。結論から言うと、我が国は戦前も戦後も変わりなく集団的自衛権を行使している。とくに、戦後は70年以上ずっと行使している。それは、米軍に基地を提供するという形で提供しているのだ。国際法上、基地の提供も自衛権の行使に含まれるのである。また、日米安全保障条約では、我が国は有事の際に在日米軍の基地を防衛することになっている。これも集団的自衛権だ。要するに、日米安全保障条約は集団的自衛権の行使を前提にして成立しているのであり、今回の安保法制で“初めて解禁になった”のではないのだ。また、湾岸戦争では日本は多国籍軍に戦費を多額に拠出したが、これも集団的自衛権の行使である。「初めて集団的自衛権が解禁された」というのは嘘であり、また我が国の戦後史から逃げているだけに過ぎないのである。

 さらに言うならば、政府の憲法解釈も、もともとは集団的自衛権の行使を合憲としていた。鳩山一郎内閣時代の杉原荒太防衛庁長官は、昭和30年7月26日の参議院外務委員会で、「日本としては集団防衛、集団自衛ということは、やはり日本を守っていくために必要である」と答弁しているし、岸内閣時代の藤山愛一郎外務大臣は、「日本の基地におります米軍を攻撃することは(中略)当然自衛権の発動がありますし、またアメリカが攻撃されれば、それに対してアメリカとしても自衛権を発動しなければならぬ状態にあろうと思います。したがってお互いに共同動作をとるということは、当然の帰結」「共同動作をとって参りますことは、集団的な自衛権を行使することになろう」と答弁しているのである。

 もし、「集団的自衛権は保有すれども行使せず」という憲法解釈を変更したいならば、「変更」ではなく「戻す」が正解だったであろう。安倍総理の口で「岸内閣での政府解釈に戻します」とただ一言いえばよかったのである。しかも、ご自身の祖父の内閣というある種の「運命」もあるのだから。そのようにすれば、安保法制反対派や反戦平和主義者からの攻撃も最小限だっただろうし、迎合するマスコミも反論できず、世論もついてきたはずである。

 また、安保法制反対派が「憲法違反だ」と声高に叫び、かつて改憲派だった小林節慶應義塾大学名誉教授も、なぜか左派に転向して「違憲立法だ」としているが、そもそも我が国のアメリカから押し付けられた日本国憲法自体が「憲法違反」であり、とくに「憲法第9条自体が違憲」であることを知らないのだろうか。

 これには説明がいる。まず、憲法と憲法典を分けて考える必要がある。憲法とは、憲法学の専門用語でいうところの実質的意味の憲法であるが、国家の不文の慣習法のことである。つまり、我が国の伝統的な統治の仕方や皇室のあり方など、歴史や国体そのもののことをいう。そして、憲法典とは、なぜか「悪魔の憲法」とされている大日本帝国憲法や、日本国憲法(こちらのほうが悪魔だが)のことである。つまり、不文の慣習法を明文化、法典化したものを憲法典という。

 我が国は、古来より自衛権を行使してきたといえる。あの元寇なども、元という侵略者に対して自衛権を行使したといえるだろう。古来より行使し、保有してきた自衛権は日本の国権として発動したのだから、実質的意味の憲法つまり「憲法」となっており、現代においても違憲ではないのだ。憲法典で自衛権を禁じるというのは、それ自体が「憲法違反」であり、よって憲法9条は憲法違反なのである。

 私は、これは無効と判断して、集団的自衛権は限定ではなく「全面行使容認」という立場でよいと考える。保守派の改憲派も、左派の護憲派もただ罵りあっているだけで、茶番劇である。不文の憲法に立脚した、「真の憲法典改正論議」をしたものである。

 話題を変えよう。保守派の多くは「自衛隊が軍隊である」と誇らしげに唱え、左派も「軍隊」だとして廃止論を唱えている。かつて、民主党政権では「暴力装置」と吐き捨てた愚かな官房長官もいたが。しかし、その自衛隊だが、果たして軍隊といえるのだろうか。ここで私が論じたいのは、現在の「自衛隊は軍隊ではなく実力組織」という頓珍漢な政府解釈ではない。軍隊としての「要素」があるかどうかだ。軍隊の要素を列挙していこう。

 ①国家の防衛が任務
 ②物質的自己完結能力
 ③組織的自己完結能力
 ④統制される存在
 ⑤人を殺害することを前提としている

 ①は自衛権の行使を任務としていることだ。しかし勘違いしてはいけないのは、国民を直接的に守る国民保護ではないということである。よく、沖縄戦を引き合いにして「軍隊は国民を守らない」と批判するが、私は「そもそも主たる任務ではないので、そうですが何か?」と返答したい。そもそも、国民保護を任務としているのは、警察や消防である。いまの我が国であれば、海上保安庁もそのうちに入る。そもそも沖縄戦で住民が大量に死亡したのは、大日本帝国憲法に戒厳令の規定があるのにも関わらず、それを軍が布告せず、それにより従順で日本軍を信頼していた県民が、わざわざ日本軍についていった結果である。まさに、戦場に民間人なのに自ら赴いて自殺したようなものだ。国際法では、軍人の側に民間人がいたとしても、それを殺害しても国際法違反にはならない。なぜなら、便衣兵を攻撃するためにある規定だからだ。敵の米軍からみれば軍人なのか民間人なのか判別できず。むしろゲリラと判断するのである。だから、軍隊は直接国民を守ってはいけないのだ。

 ②は、必要な物資をすべて軍で用意し、補給体制も整っており、現地の国民に頼ることはいないということだ。しかし、これは自衛隊は満たしているようで満たしていない。東日本大震災でのことだが、自衛隊のレーションに赤飯があったそうだが、隊員は「こんな悲惨なときに食べてはならない」とし、拒否したという。美談のように語られているが、「軍人」ならばあるまじき行動だ。与えられたレーションを必要な分だけしっかり消費し、体力を保って任務を遂行してもらわないと、かえって国民にとって迷惑だ。この時点で、物質的自己完結能力は一部かけていると言える。

 ③は、政府機能を回復する能力だ。裏を返せば、クーデターをもできる能力を持っているかどうかということだ。大災害や有事の際、政府要人までが安否不明、もしくは死亡していて政府機能が麻痺している場合、軍隊が軍政を敷いて臨時政府を打ち立て秩序を保つなど国家としての役割を果たすことである。これを悪用したのが、蒋介石の中国国民党である。だからこそ、政軍関係が重要で、その政軍関係に常に腐心しなければならない。

 ④は、英国でいうシビリアン・シュプレマシーである。よく耳にするシビリアン・コントロールとは全く別物である。シビリアンコントロールは、悪くいえば政府・政治家にいちいち軍が行動するために確認をする制度であり、シビリアンシュプレマシーは、政府と政治家と軍隊の役割を分担し、政府は宣戦布告するかどうかを判断し、政治家が予算など必要事項を集めて決め、軍隊が実力行使をするという関係だ。つまり、軍隊は政府が一度国権を発動すれば、国際法上違法でない行為以外は、すべて行っていいのである。

 ⑤は、いうまでもないので説明はしない。

 果たして、我が国の自衛隊はこれら全てを満たしているだろうか、甚だ疑問である。それに、軍法会議や軍刑法もないのだから軍隊とはいえない。悪く言うならば、中国の武装警察、アイスランドの警察軍のようなもので、警察予備隊時代から何も変わっていない。結局、司法警察権のない警察といえるだろう。

 これら諸問題を含めて、我が国の防衛政策・防衛体制には致命的欠陥がある。これを解決するには憲法改正しかないのだが、これもまた厄介だ。我が国には現在のところ「日本国憲法の焼き直し案」以外、まともな改憲案が存在しないのである。自民党案も、産経新聞案も、日本青年会議所案も、読売新聞案も。主語に「天皇」がないのだから、我が国の憲法典としてふさわしくない。

 二・二六事件(昭和11年、1936年)を思い出してほしい。あれは、右翼の軍人がクーデターを計画し、軍隊を勝手に動かして天皇親政国家を建てようとした。しかし、天皇は統帥権を行使し鎮圧した。つまり、天皇大権の行使である。だが、現在提示されている改憲試案のどれをみても、軍隊の最高指揮権は内閣総理大臣と明記されており、「天皇の軍隊」ではなく「内閣総理大臣の軍隊」となっている。これでは、コミンテルンのような内閣総理大臣が誕生した場合(片山内閣も実際誕生した)、勝手に軍隊を動かして天皇を殺害して、革命軍として利用することも法的には可能になってしまう。現在の自衛隊法でも、そのようになっている。軍隊というのは、統帥権は天皇が持っており、実際に行使するのが内閣という存在である。英国は、この「憲政の常道」を守っている。

 また、国家緊急権の議論が話題となっているが、これもまた浅い議論である。国家緊急権の発動は、内閣総理大臣の権限とか内閣の閣議決定により発動などと諸改憲案には明記されているが、関東大震災のような首都直下型地震の場合、政府要人の安否が不明の場合は発動できないではないか。大日本帝国憲法では、非常大権を天皇が持っているし、勅令も発することもできる。もし、このような状況を想像することができない方は、映画「ホワイトハウス・ダウン」を観てほしい。

 これまで述べてきたように、保守派は全く現実を直視し、歴史を直視した議論をしていない。左派は、もはや論外だ。私は、日本国憲法第96条と国民投票法に則って、大日本帝国憲法を現代に合わせて改正したような憲法典を制定すべきだと考える。しかし、それは安倍政権にはできないだろう。まずは、防衛費の増額と敵基地攻撃能力の保有、芦田修正に立脚した憲法解釈または、鳩山一郎内閣時代の憲法解釈に戻ることから始めてはどうか。

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