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また一つ戦後の悪癖が消えた。社民党ほぼ壊滅

 社民党の前身である日本社会党は、戦後55年体制を知っている人間にとって、とても大きな名前でした。

 昭和20年、敗戦によって打ちひしがれ、復興への道のりが始まった新生日本を社会主義によって切り開いていくべしと戦前弾圧され、身を潜めていた社会大衆党を中心とする無産政党や労働運動関係者、社会主義活動家らが安倍磯雄らの呼びかけに呼応して作られた革新政党でした。

 「革新」という言葉が、GHQの軍部批判教育(WGIP)が繰り返される中、何か明るい希望のようなものに見えたのでしょう、多くの日本人がこの幻想を信じていました。

 しかし、その実態は右派の社会民衆党系、中間派の日本労働党系、そして左派の日本無産党系に分かれ、党内で対立し、主導権争いを繰り広げていました。

 そして1950年には右派と左派で分裂しましたが、1955年にふたたび統一、それと同じくして自由党と民主党が合同して自由民主党が結成され、これを55年体制と呼び、1993年に細川内閣が誕生するまで続くのです。

 そしてその期間は与党が自民党、野党の第一党が社会党となり、私と同じ年代の人たちはこの体制が当たり前のように身に沁みついています。

 社会党はマルクスレーニン主義と社会民主主義の対立が常にあり、党としての統一見解が出せないために、常に与党自民党の反対でその存在感を保っていました。今の立憲民主党をはじめとする不要な野党の戦略はここを継承していると思っております。

 55年体制になる前の1951年に鈴木茂三郎が有名な演説「青年よ再び銃を取るな」から、社会党は「非武装中立論」を掲げてきました。

 まったくのお花畑の思想ですが、親や家族を戦争で失くし、貧困と飢えの中で日々の生活を過ごしてきた人たちにとっては「大切なこと」です。歴史は現在の価値観で過去を批判してはならないのです。でも、この非武装中立論は全くの荒唐無稽な理想論であることが後で社会党自身の手によって証明されます。

 社会党の中から1960年に右派である民社党が分離します。有名な春日一幸氏や皆さんご存知西村慎吾氏が所属していた政党です。

 60年代後半から70年代にかけて、全野党共闘戦線を取り、東京、大阪をはじめ全国の自治体の首長選挙で勝利して、俗にいう「革新首長」を誕生させます。有名な例が美濃部亮吉東京都知事であり、福岡県知事の鵜崎多一などがその例になります。

 この時に毛嫌いしていた共産党とも共闘(社共共闘)をするのですが、共産党と組んだ政党は必ず地に墜ちるということの先例になります。

 そして地方の期待を一身に受けた革新首長はそのほとんどでばらまきの政治を行い、地方の財政難を招くことになります。

 そして社会党はソ連を社会主義の祖国と仰ぎ、チェコ(プラハの春)事件でソ連の介入を公然と支持するなど、ソ連の代理人のような存在になるのです。

 その頃よく聞いたことに、米ソの核兵器開発競争で、アメリカの核は汚い核、ソ連のそれはきれいな核と平気でうそを言っていました。それが今の反原発派の年寄りたちの反対する根拠のようなものになっています。

 自然放射線と人口放射線は違うと言ったり、放射線(放射能)を浴びるとがんになり、その人が子供を産むと被爆二世になるという全く非科学的なことを信じ込み、びっくりすることに今でもそれを信じている人が反原発派の中に大勢にいるのです。

 1986年に土井たか子氏が女性初の政党党党首になり、マドンナブームが起きます。しかし1989年の支持母体である総評が連合に代ったことにより、強固な支持がえれなくなり、さらに党勢は傾いていきます。

 1990年の湾岸戦争時、9条を盾に自衛隊のPKO活動は県に大反対します。それにより、一定の支持は受けますが、国民の多くが国際社会での貢献という視野から何が何でも反対という社会党の姿勢にだんだん嫌気がさしていくのです。

 そして強力な後ろ盾だったソ連が1991年に崩壊し、社会主義神話が崩れていきます。

 与党自民党も小沢一郎氏などの造反で分裂し、1993年には細川連立政権が出来て、55年体制に終止符が打たれます。

 その時に、自民党は下野するのですが、なんと政権奪回のために奇策をうつのです。

 自社さ(自民党、社会党、新党さきがけ)の連立で政権を奪回し、1994年社会党党首の村山富市を総理大臣にしてしまうのです。

 そしてそれが天の怒りを呼ぶのか、1995年1月17日に阪神淡路大震災が起き、村山総理の怠慢で自衛隊の出動が遅れ、亡くならずに済んだはずの多くの命が奪われるのです。

 村山富市は総理大臣になり、現実の政治を知ることになります。そして社会党の主張をことごとくひっくり返すのです。

 すなわち、日米安保肯定、原子力発電肯定、そして自衛隊を合憲と認めるのです。

 それにより、社会党の存在意義は失われますが、その時に決定したのが消費税を3%から5%に引き上げました。

 求心力はさらに落ち、社会党は1996年に社民党に名称を変更し、その時に実質上潰れています。

 野党第一党だったために、社会党の職員は大勢にいたのですが、その人たちが職を失いますが、民主党旗揚げの時(1998年)に、法案の作成など様々な実務を知っている旧社会党職員が再雇用され、自民党から分かれていった二大政党制を夢見た人たちが左派に毒されて地獄を見ることになるのです。

 そして先日の党大会で立憲民主党と合併を拒み、福島瑞穂ただ一人の国会議員になるのです。

 福島瑞穂は全国比例からの選出であり、労組などの固定票で当選を重ねてきており、党内でも批判を浴びていましたが、問題はそこではなく、日本国民の意識の変化と党の体質の改善の歩調が合わなかっただけのことです。

 これは立憲民主党の今後を占う大きなものであり、「何でも反対」「国益には無関心」「パフォーマンス議員の横行」では、遅かれ早かれ、社民党と同じ運命をたどるでしょう。

 今はよく自民党一強と言われていますが、私に言わせれば「野党が果てしなくだらしないし、日本の国益などこれっぽっちも考えていないから」だと思います。

 でも、地方議員のレベルでは弱者のための活動をしている議員たちが票を取り議席を保っています。与党の議員もきちんとその分野に強くなって地方議員の仕事をきちんと果たさねばなりません。

 すべてが与党になったらいい悪いかどうかはわかりませんが、議員は国益を考えて同国民や市民の利益になるかを考えていくべき時に来ています。

 平べったく言うと、売国奴議員はいらないのです。その未来は今回の社民党事実上の壊滅ということです。


「井上政典のブログ」より転載
https://ameblo.jp/rekishinavi/

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