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“沖縄事情”から革新と手を組んだ保守の家門―翁長雄志氏

革新との結託で自縄自縛に

 8日、死去した沖縄県の翁長雄志知事。米軍普天間飛行場(宜野湾市)の辺野古移設阻止を県政運営の柱に掲げ、4年間はそれに没頭した。反基地革新勢力からすれば、「英雄」に映った。一方で、辺野古移設をめぐり、国との裁判闘争に発展した。その結果、国との信頼関係は低下。予算規模が縮小され、そのしわ寄せが市町村に及んだ。

 県民がの福祉を向上させ暮らしやすい環境をつくるのが知事の務めだが、2015年6月の定例記者会見では、「基地問題に8~9割を費やしている」と嘆いたこともあった。翁長氏はなぜ、そこまでして辺野古移設反対に固執したのだろうか。

 その原点は家族にある。翁長氏は、名門の保守家庭で育った。父・助静氏は琉球政府の立法院(国会に相当)議員を経て、旧真和志村(現那覇市)の村長に就任した。兄の助裕氏は県議を経て副知事を務めた。

 ところが2人とも、幾度となく苦杯をなめた。助静氏は3市村合併後の那覇市長選で敗北。助裕氏は知事選に立候補したが大田昌秀氏に退けられ、衆院選に挑戦するも及ばなかった。

 翁長雄志氏は法政大学に入学すると、「日本語が話せるのか」と言われるなど、沖縄県民であるが故の心ない仕打ちを経験したと、2012年、那覇市長選に4選を果たした後の世界日報のインタビューで、本土との埋まらない溝を口にしたこともある。

 卒業後は沖縄に戻り、建設会社勤務しながら、母親の反対をよそに政治の道を歩んだ。本土との格差に対する反骨心、そして父と兄の道半ばの遺志を継ぐという強い気持ちがあったからだ。

 34歳で那覇市議に当選。41歳で兄の地盤を引き継ぎ県議に転身した。自民党県連の幹事長を務め、革新の大田昌秀知事を誰よりも厳しく追及した。大田氏に辺野古移設容認を迫ったのは誰あろう翁長氏本人だった。

 その後、多くの選挙で選対本部長を務め、勝利に導く「選挙請負人」と言われるようになった。

 政治スタンスに変化が見られたのは2007年だ。文部科学省の高校歴史教科書検定で沖縄戦における「集団自決」の「日本軍強制」の記述が削除・修正されたことに対し、記述復活と検定意見の撤回を求めた「県民大会」で登壇した。

 那覇市長4期目に挑戦した2012年には、「保革を超えて」をスローガンに使い、オスプレイ配備反対や辺野古移設反対を口にし始めた。選挙に勝つための手段として、「反基地」を公約に盛り込むことを厭わなくなった。

 2013年1月、翁長氏は上京し、「オスプレイの配備撤回」と「米軍普天間基地の県内移設断念」を求める“建白書”を安倍首相に手渡した。これが、後に保革を超えた「オール沖縄」の原型となる。

 14年の知事選では、元自民系の那覇市議から共産党まで幅広い層を抱え込み、現職の仲井真弘多氏に大差をつけて勝利した。ただ、これが後々、自分自身を苦しめることになる。保守系からは「裏切り者」と責められ、共産など反基地勢力からは「一日も早く(辺野古埋め立て承認)撤回せよ」と叱咤された翁長氏。辺野古移設をめぐる心労が自らの体を蝕んだことは想像に難くない。

(那覇・豊田 剛)

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