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「戦争の愚かしさ」語る軽さ

菊田 均文芸評論家 菊田 均

戦後70年の奇妙な思考

人間の奥深くから検証せよ

 毎年のことだが、「8月15日」が近くなると、戦争のことが話題になる。そんな中、「愚かな戦争」、「戦争の愚かしさ」という言葉がいつものように言われる。聞いていて、「軽い」という印象を常に感じる。「戦後70年」という長い時間がそこに横たわっているために、戦争の実態が追体験しにくくなっているところから「愚か」という言葉が出てくるようだ。

 1945年(昭和20年)を起点として過去に遡ると、その70年前は1875年(明治8年)。明治初期の時代で、西南戦争(明治10年)も起こっていない。

 1945年はそれほど遠い過去なのだが、それを無理矢理思い出して現在にはめ込もうとするから、「愚かな戦争」と言った紋切型になるしかない。紋切型とは、リアリティの全くないものでしかないのだが、どんな理由によってか、飽きもせず、こうした紋切型が繰り返される。

 負けた戦争だから「賢い戦争」とは言えないだろうが、だからといって「愚かな戦争」と断定してしまえば、戦争という巨大な現実は見えにくくなる。「愚かしさ」と言うと、例えば万引きして捕まる、といった程度のものしか思い浮かばない。それでも、戦争に関しては、「愚かしさ」という言葉が普通に使われる。そのことへの疑問が語られることもない。

 70年以上前、「愚かな」などという言葉ではとても説明できない「歴史の流れ」があって、それが戦争へとつながった、というのが実態だったと私は考えている。当時私はこの世にいなかったので、実感としてはわからないのだが、そう思っている。

 もしも「愚かさ」ということが当時明瞭にわかっていれば、さっさと方向転換すればよかったはずだ。それがそうはならなかったのは、そのころの「歴史の流れ」が、今の我々が漠然と考えているほどわかりやすいものでも、たやすいものでもなかったからだと考えるしかない。

 その辺の事情をきちんと言葉で伝えたものはないだろうか、と思って探してみたら、小林秀雄の言葉が浮かんできた。

「戦は好戦派という様な人間がいるから起こるのではない。人生がもともと戦だから起こるのである」と彼は昭和17年、日米戦争のさなかに書いている。

 「人生がもともと戦」だ。戦争は、人類史の中で人間の奥深くに刻み込まれたものであって、「愚かさ」といった簡単な言葉で済ませることはできないし、ちょっとした理念などで簡単に覆らせることもできないやっかいな代物だ。元々この世の現実はやっかいなものなのだが、戦争はそうした現実の一部なのだ。

 「戦争と平和」は、「○か×か」という二分法によってではなく、グラデーション(段階的変化)で考えた方がよさそうだ。対外的戦争は、小競り合い→紛争→事変→戦争というように徐々に変化して行くし、国内での戦争も、小競り合い→動乱→内乱→内戦(例えば西南戦争)へと進む。

 戦争は病気のようなものだ。死んでしまえばともかく、人間も動物も(植物も)、生きている限り、病気と付き合うしかない。生命体が病気を完全に排除することは難しい。

 「受験戦争」と言う言葉にしても、実際に血を流すわけではないが、本物の戦争に通じる「競争」の一面を物語っていることは紛れもない。これも、「争い」の一種には違いない。

 「企業戦士」という言葉もある。彼らが銃を構えているはずはないが、日本国内であれ海外であれ、闘っていることはだれもが知っている。だから「戦士」なのだ。「戦」は、人間の生存と深く結びついている。

 「いくつかの選択肢の中から一つを選ぶ、などということはありえない。一つを選んだら、他の全てが一気になだれ込んで、後戻りはできない」(『長州戦争』中公新書)と、日野口武彦氏(日本思想史)が書いている。10個程度の選択肢がある場合、Aを仮に選んだとすれば、それ以外の九つの選択肢はしっかり排除されるのかと言えば、そううまい具合には行かないですよ、と言っているのだ。

 CやGやHも、Aに引きずられてやってくる。現実はABC……などいくつかの要素を含むが、要素同士は思いがけず緊密に結びついていて、Aを選んだはずが、実際は選んだわけではないそれ以外のものをも結果として選んでしまった、というような形で現実はやってくる。現実はどこかで連続していて、「愚かだから選ばない(それで終わり)」という単純な話にはどうやらなっていないようなのだ。人間の直面する現実には不思議な粘着力が働いている。現実はその程度には複雑なもののようだ。

 実際はだれもがそんなことはわかっている。普通に生きていれば、そんなことはわかる。が、なぜか、こと戦争に限っては、「そんな愚かなものは簡単に排除できる」、という風に考えるクセがついている。そうした奇妙なクセが、戦後70年という長すぎる時間の中、しっかりと検証される機会もないまま、サビのように我々の体に染みついている。そうしたサビをそれとして直視することも、なぜか今もって避けられているのが不思議だ。

(きくた・ひとし)

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