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功利主義はびこる日本を立て直そう

NPO法人修学院院長 久保田 信之

日本人支えた「職人気質」
「自己陶冶」こそ教育実践の目的

久保田 信之

NPO法人修学院院長 久保田 信之

 西洋近代との関係が深まるに伴い、一神教社会の影響が強まるに従い、多様性を基盤とした日本社会を根底から崩し始めた。新自由主義の浸透に伴い、カネが人間を支配する現象が日本社会を急速に変質させた。プロセスよりもゴール(業績・結果)が重んじられ、無駄なく、要領よく数字を上げればよいといった浅薄な「功利主義」が幅を利かせ始めた。

学校が「資格発行所」に

 人間形成(教育)の領域でも、「学歴・学校差」が人間評価に幅を利かせるに伴い、日本社会から「教え育てる」喜びも意義も放逐され、「自己鍛錬」「自己探求」の喜びも影を薄くした。学校という教育機関は、自動車教習所よろしく、資格を獲得する目的で入学してきた若者を相手に、その目的をかなえるよう、嫌われないようにするサービス機関に成り下がったのだ。

 現在、学校に対して期待することは、卒業に必要な単位数を早く無駄なく要領よく獲得することであって、単なる「資格発行所」に学校は成り下がった、と言えまいか。

 この悲劇を知ってか知らずか、各学校の「学校紹介」は、実際の学習状況ではなく、「遥(はる)か彼方(かなた)」に想定し夢想した立派な言葉を記載してごまかしている。抽象的美辞麗句を並べておけば、どこからも批判は受けない。具体性もなく実現性がなくとも、「これをわが校は教育実践で目指している」と言えば反論はない。

 教育実践を念頭に置かず、あらゆる場面に適応できる道徳理念を並べる「空しい議論」や「道徳教育の目的づくり」を重ねたところで、教育活動は混乱を極めるだけ、というのが現実であろう。道徳性も公共性も持たない、傍若無人な人間を世に送り出しているのが現在の教育機関であることを、世の心ある大人たちはしっかりと認識してほしいものだ。

 日本各地には、神話時代から守られてきた伝統文化が豊富にある。しかも、それらが、単に博物館の中に飾られて静かに眠っているのではない。先祖が眺め慈しんできた山や川に囲まれている豊かな自然が残っている地方都市には、ご先祖から語り継いできた「習わし、しきたり」が残り、季節ごとの祭りをはじめとする「年中行事」が、住民の心のよりどころであり、日々の生活を守り支える中核となっているのだ。たとえ変化の激しい今・現在でも、ご先祖様は「祖父や父親の中に生き続いている」と実感しながら、安定した気持ちで日々を過ごしていられたのだ。

 日常社会との横軸と、ご先祖様との縦軸が、私という個人を支えているといった「安定感」を日本人は味わいながら生を送っていたのだ、という事実を「遅れた特異な文化」だと低く解釈する人がいるかもしれないが、地方都市を見るならば、これこそが日本の本流であることに気付くはずである。

 東京をはじめ人工的な巨大都市で生活していると、住民は、今・現在を支えている「歴史・伝統」等に関心がなくなる。「生活を支えてくれているのはカネだけだ。カネの額が質を決める」と言い切って恥じない人が増えた。

 しかし、日本の伝統文化にあっては、「小我を捨てて大我に至る」ように、我欲に突き動かされて思うようにならない不自由な自分を乗り越えて限りなく成長する働きを「人間形成・教育」と定義付けてきた。この働きを促進してきた諸先輩は、「背私向公」「則天去私」さらには「克己復礼」「滅私奉公」その他、多くの感銘深い言葉を残してくれてきた。

 「背私」「去私」「克己」「滅私」という、「騒ぐ自分との闘い」そのもの、すなわち「教育活動そのもの」を日々実践することが「自己形成の目的」であったのだ。「公」とか「天」といった「現実にはない」、夢想でしかない「遠い将来」に想(おも)いを馳(は)せるような生き方を日本人は軽蔑してきた。

 力強い教育実践を求めていた日本では、「現実には存在しない遠い理想」を基準にして「現実」を評価するようなことはせず、日々、生きて成長している一人一人が必ず気付く「至らざるところ」を、少しでも満足のいく段階まで育て高める「自己陶冶(とうや)」ではなかったのか。

本来の人間形成の理念

 自己自身を厳しく見詰める中から生まれた「職人気質(かたぎ)」という人間形成の理念が、日本社会にはあったことを思い出して、軽薄な日本人の増殖を食い止めたいものだ。

(くぼた・のぶゆき)

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