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雲仙普賢岳の噴火から30年

拓殖大学防災教育研究センター長・特任教授 濱口 和久

平成の天変地異の前触れ
「火砕流」の恐ろしさを痛感

濱口 和久

拓殖大学防災教育研究センター長・特任教授 濱口 和久

 雲仙普賢岳(長崎県島原市)の平成3(1991)年6月3日の大噴火から、今年で30年が経(た)つ。今にして思えば、この噴火は、平成の時代に日本列島で相次いで起きた天変地異の前触れだったとも言えるだろう。

 噴火した火山から高温のガス、溶岩、火山灰が入り混じって山腹に流れ出す「火砕流」の恐ろしさを、このとき初めて日本人は知ることになる。そして、死者行方不明者43人、負傷者9人、避難者1万人を超える大災害となった。

長期に及んだ陸自派遣

 噴火が起こると、自衛隊にも災害派遣の要請があり、長崎県大村市に駐屯する陸自第16普通科連隊が出動した。島原城(島原市)に災害派遣部隊の指揮所(平成3~7年)を置いて活動する。このとき、長崎県、島原市に観測所を持つ九州大学と、被災者救助のために派遣された自衛隊との関係はきわめて緊密であった。

 自衛隊は火山観測と地元に対する支援のシンボルとして、1653日間にわたり災害派遣を継続し、平成の災害派遣の中では最長期間の派遣となった。

 噴火の2年前の平成元年11月、橘湾で群発地震が起き、平成2年7月にかけて、徐々に震源が山側へと近づいていたことから、一連の活動は火山活動の活発化によるものだと判断される。同年11月17日、普賢岳は地獄跡火口と、そこから南東に約200㍍離れた九十九島火口の2カ所から噴煙を上げ、198年ぶりに噴火活動を再開した。このときに起こった水蒸気爆発は、噴煙が最大400㍍にも及ぶものだったが、幸いにして被害はなく、その後、噴火は沈静化したかと思われていた。

 ところが、平成3年2月12日、地獄跡火口から南南西にある屏風岩新火口から多量の火山灰を伴って噴火。3月20日から5月11日にかけては、屏風岩新火口に加えて地獄跡火口および九十九島火口の3カ所から噴煙を上げるなど、小規模ながらも頻繁に噴火を繰り返すようになる。

 5月12日になると、火口直下のごく浅いところを震源とする火山微動が頻発し始めたほか、山自体の膨張も認められ、溶岩の流出が懸念されるようになった。5月20日には地獄跡火口に溶岩ドームが確認される。次第に溶岩ドームが成長すると、溶岩ドームの模様や、これから起こるであろう大規模な噴火の決定的瞬間を撮影するべく、マスコミ各社の取材も熱を帯びてくる。しかし、このことが、火砕流による人的被害を大きくする要因となる。

 5月24日、成長した溶岩ドームが崩壊し、最初の火砕流が火口の東にある水無川源流に流れ出す。初めは規模も小さかったが、溶岩ドームが日に日に大きく膨らみ、崩壊を繰り返すたびに、火砕流も徐々に規模を増していった。5月26日には大きな火砕流が連続して起き、作業員2人が腕に火傷(やけど)を負い、付近の住民に避難勧告が出される。このとき、まだ火砕流の恐ろしさを理解していなかったマスコミ関係者は、相変わらず避難勧告地域の内側で取材を続けていた。

 6月3日午後4時8分、これまでで最大規模の火砕流が起きる。内部温度が300度以上ともいわれる火砕流が、時速100㌔の速さで水無川流域を襲う。マスコミ関係者や警察官、地震学者、見回りを行っていた消防団員などが逃げ遅れて火砕流に呑(の)まれる。

地元消防団員ら犠牲に

 犠牲者の内訳は、地元の関係では、消防団員の犠牲が一番多く12人が亡くなった。島原市議会議員選挙が行われた直後ということもあって、選挙用ポスターを撤去しにいった住民2人が犠牲になる。マスコミ関係者は22人が犠牲となり、この中には、マスコミがチャーターしたタクシーの運転手も4人含まれている。外国の有名な火山写真家も犠牲になる。

 この日は、朝から天気が悪く、普段なら100人ぐらいいる報道陣もそれほど多くなかった。翌日には、遅れていた葉たばこの花摘みをたばこ組合員がみんなで行うことが予定されていた。もし火砕流が1日遅く起きていたら、さらに甚大な人的被害が出ていたに違いない。

(はまぐち・かずひさ)

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