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人間の本性と情報化社会の限界性

名寄市立大学前教授 加藤 隆

「自分への価値」確信望む
無知の知を自覚し視点転換を

加藤 隆

名寄市立大学前教授 加藤 隆

 トルストイに『人は何で生きるか』という作品がある。傲慢な金持ちが靴職人である主人公の店にやってきて、持参した皮を渡しながら上等の長靴を作るように命じる。天意に通じているこの靴職人は、要望に反してスリッパを作ってしまうのだが、金持ちは帰りの馬車の中で心臓か何かで突然に亡くなり、結局は遺体に履かせるスリッパ作製が相応(ふさわ)しかったという落ちである。我々は一分先の運命も分からないのに傲慢になるなかれと諭している。

真知から見た人間の姿

 このように己の知識を誇る人間の姿を思うにつけ、知恵ある二人の人物が心に浮かぶ。一人はソクラテスである。彼は生涯を通じて問答法という対話によって真なるものを追い求めた哲学者である。特に、己を知者と自任していた当時の最高指導者たち(ソフィスト)に接して、その曖昧さ、本質の不在さを暴き出す。

 その反感が死刑に繋(つな)がるのだが、ソクラテス自身は無知の知、つまり自分は何も知り得ていない者であると真摯(しんし)に自覚していた。博学多才を売りにして活躍していた当時のソフィストと対置するとき、ソクラテスの異次元性が鮮やかに浮かび上がる。彼はダイモーンという超越世界と通じながら、「汝、〇〇するなかれ」と語り掛ける声に聴(き)き従って、無知の知を自覚して生きた。

 もう一人はイエスである。聖書には数多くの逸話や教えが記されているが、ソクラテス同様に宗教指導者の反感と民衆の扇動にあって、ローマ帝国の極刑である惨(むご)たらしい十字架刑に処せられた。ところが、極刑に掛りながら、神に祈り、人間を取りなしている姿は人知を超えている。「父よ、彼らをお赦(ゆる)しください。彼らは何をしているのか自分で分からないのです」と祈るのである。真知から見るならば、我々人間の原像は「何をしているのか自分で分からない」ほどの危うい存在にちがいない。

 さて、世は情報化社会真っ盛りである。情報格差や情報難民という言葉が飛び交うほどに、知は力なりと世界が宣言している。加えて、シンギュラリティーの時代の到来も間近だという。つまり、2045年には人工知能の方が人間の知能よりも優秀になり、逆転現象が起こると予測される。

 しかし、負の側面にも洞察を加えなければならない。つまり、情報化社会の限界性ということである。溢(あふ)れるほどの情報とコンテンツの洪水の中にあって、我々の心が満たされないのはどうしてであろうか。トルストイではないが、人は何で生きるかという人間の本性への問いがないからである。世界からワーカホリックとまで称される我々日本人が寝食を惜しんで懸命に働き、子どもには高等教育を願うのはなぜだろうか。そのような意識の背後で、我々が無意識に渇望しているパッションは何であろうか。

 結局のところ、それによって「自分への価値」「自分の意味と目的」「自分が愛されている」という確信を得たいのだ。例えば、社会的成功を収めることで、自分は価値ある者であり、自分の意味と目的が明確になり、自分は周囲から愛されていると感じたい。しかし、そのようなことが砂上の楼閣であることは多くの人が分かっている。人間の実存が求めて止(や)まない「自分への価値」「自分の意味と目的」「自分が愛されている」という価値を、人格のない情報や人工知能に求めても意味はないのである。

 それどころか、情報化社会を突き進む我々の社会にあって、人間同士の喜怒哀楽の乏しさ、家庭内の悲劇、不寛容な社会、心を閉ざして孤立する人間がますます増大している。内閣府は、19年度の家庭内暴力(DV)の相談件数が過去最多となり、さらに20年度は前年の約1・5倍で推移していると報じている。人格は人格的出会いなくして心の平安はないのである。

内村鑑三が残した警告

 明治期に生きた内村鑑三は、現代の社会を見透かすように次の言葉を残している。「日本が滅ぶとしたら、科学、芸術、富、愛国心の欠如からではなく、人間の真の価値についての認識、崇高な法の精神の感覚、人生の基本的原則に関する信念の欠如からである」。内村もまた、人間が備えるべき認識と感覚と信念の欠如を警告する。無知の知を自覚し、真知の世界、天なる世界から捉える視点こそ求められているのではないだろうか。

(かとう・たかし)

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