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災害対応の先駆となった濃尾地震

拓殖大学防災教育研究センター長・特任教授 濱口 和久

130年前、内陸最大級のM8
軍隊出動や地震研究の契機に

濱口 和久

拓殖大学防災教育研究センター長・特任教授 濱口 和久

 今年は東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)から10年、熊本地震から5年という節目の年だが、もう一つ忘れてはならない地震がある。それは130年前に起きた濃尾地震である。

 明治24(1891)年10月28日午前6時38分、岐阜・愛知両県とその周辺を強震が襲う。岐阜県西根尾村(現在の本巣市)を震源とするマグニチュード(M)8・0の地震が起きた。平成7(1995)年1月17日に起きた兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)のM7・2、大正12(1923)年9月1日に起きた大正関東地震(関東大震災)のM7・9を超えるものだった。この地震は、日本の内陸で起きた過去最大級の地震であり、明治以降の近代日本が遭遇した初めての巨大地震だった。

死者7千人を超す被害

 死者は7273人。このうち岐阜県で4901人、愛知県で2459人が犠牲となっていることからも広い範囲で激しい揺れが襲ったことが想像できる。建物被害は、西は兵庫県から東は山梨県まで15府県に及ぶ。全壊・焼失家屋は14万2177軒で、当時の人口密度、都市の規模から計算すると、阪神・淡路大震災をはるかに上回る甚大な被害だ。

 明治20年に完成したばかりの長良川鉄橋の落下をはじめ、耐震構造になっていなかった橋梁(きょうりょう)や建物に大きな被害が出た。名古屋市内では煉瓦(れんが)造りの行政機関の建物が甚大な被害を受け、名古屋郵便電信局、愛知県庁、名古屋市役所、警察署、控訴院、裁判所などが倒壊した。これら文明開化の象徴である煉瓦造りの建物の多くが倒壊したことは、社会的にも影響が大きかった。名古屋城の城壁や犬山城(愛知県犬山市)にも被害が出る。特に犬山城は天守台西南隅が崩落して崩れ、小天守が全壊した。愛知県熱田町の尾張紡績工場では、430人の女工のうち38人が死亡(圧死)し、114人が負傷している。

 濃尾地震の起きた翌年、東京帝国大学理科大学教授であり貴族院議員だった菊池大麓の建議に基づき、明治政府は「震災予防調査会」を設立する。震災予防調査会は、関東大震災に至るまで、地震とその被害のメカニズムの詳しい調査を行った。濃尾地震は近代の科学的な地震防災の始まりと言える。震災予防調査会は大正14年に廃止されたが、その活動は関東大震災を機に設立された東京大学地震研究所に引き継がれ、現在に至っている。

 明治18年の大阪で起きた淀川大洪水では、地方官の要請により大阪鎮台(後の第4師団)が工兵部隊を派遣したことがある。だが、市内の橋梁防御や居留外国人の保護など活動範囲が大阪市内に限定され、あくまでも暴動・騒乱の鎮圧が目的だった。

 本格的な軍隊の出動は濃尾地震が初めてだ。名古屋城を本営とする第3師団が出動し、消火活動や医療活動、治安維持などに当たった。この時、第3師団長を務めていたのが、後に首相となる桂太郎である。地方官からの正式な要請もなく、軍上層部からの了解も得ないまま、桂の独断での出動だった。

 桂は、救援活動が一段落した後、独断で出動した行為(軍の命令系統違反)の責任を取って辞表を提出した。これに対し、明治天皇は辞表を却下しただけでなく、非常事態に即応即決した桂の対応を称賛している。

復旧・復興を国が支援

 濃尾地震から100年以上が経過しており、日本人の多くがその歴史を知らない。だが、今日の災害対応にも参考になる教訓を数多く含んでいる地震災害である。

 日本が「富国強兵」を掲げ、洋風近代化を推進し、近代国家としての体裁を整え始めたころに起きた地震であり、復旧・復興のための資材や人員の不足に悩まされる。一方で、日本赤十字社の医療活動や軍隊が災害出動を行う契機となり、地震原因の科学的研究、減災のための耐震建築の研究など、今日の災害対応の原型をつくるきっかけとなった。さらに、備蓄金での炊き出しや国庫補助による土木復興といった近代行政システムによる災害対応の先駆となったのが濃尾地震なのである。

(はまぐち・かずひさ)

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