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新渡戸稲造と『菜根譚』のことば

メンタルヘルス・カウンセラー 根本 和雄

今こそ融和・寛容の精神を
退歩は前進、利他は自利へ導く

根本 和雄

メンタルヘルス・カウンセラー 根本 和雄

 国際人として、国際連盟事務次長の任に7年間携わり、その間に「知的協力委員会」(ユネスコの前身)を担当し、アインシュタイン、ベルクソン、キュリー夫人ら知識人との交流した人物が新渡戸稲造(1862~1933)である。なかでも不朽の名著『武士道』(1900年)を英文で出版し、10カ国以上に翻訳され、セオドア・ルーズベルト米大統領が愛読して知人に薦めた逸話はよく知られている。

 その後に出版された『自警録』(16年)には、儒教・道教・仏教の三教を融合した人生訓の書『菜根譚(さいこんたん)』からの引用が多く見られる。

 それは、稲造の祖父・傳(つとう)の蔵書には、老子をはじめ東洋の著書が多く、祖父の影響によるものではないかと郷土史家・森嘉兵衛(かへえ)教授(岩手大学)は述べている。

クエーカー教徒の影響

 新渡戸稲造は、幕末の1862(文久2)年に南部藩士、新渡戸十次郎・妻勢喜(せき)の三男として岩手県・盛岡に生まれ、稲造の名は、祖父・傳が三本木開拓に成功して、最初に稲が実った時に生まれたので稲造と命名されたという。現在、その地に十和田市立新渡戸記念館が建っている。6歳のときに父を失った新渡戸は、71(明治4)年、祖父傳の勧めで叔父の太田時敏(ときとし)の養子となって上京し、12歳のとき東京外国語学校に入学し、その後、札幌農学校、東京大学で学ぶ。

 東京大学に入学のとき、面接官・外山(とやま)正一教授に志望動機を問われて、“私は日本と西洋との思想・文化の橋渡し役になり度(たい)と思う”と抱負を述べたことはよく知られている。

 その後、アメリカへ留学する。アメリカ留学時に、キリスト教の一会派であるクエーカーの集会で知り合ったメリー・エルキントンとフィラデルフィアで結婚し、日本に帰国して札幌農学校教授、第一高等学校長、東京女子大学初代学長を務める。

 新渡戸にとってクエーカー教徒の影響は大きく、この思想に出合ったことで、キリスト教と東洋思想との調和をさせることができると考えたと思われる。

 さて、『自警録』に次の言葉が引用されている。“世に処するに一歩を譲るを高しとなす。歩を退くるは即(すなわ)ち歩を進むるの張本(ちょうほん)なり。人を待つに一分を寛(ひろ)くするはこれ福(さいわい)なり。人を利するは実に己(おのれ)を利するの根基(こんき)なり”(『菜根譚』・前集17)

 即ち、「世渡りをするには、人と争うことをせずに、常に人に一歩を譲って控え目にするのが極めて大事なことである。その一歩を譲り退くということは、取りも直さず前進するための伏線となるのである。人を待遇するには、あまり厳格に過ぎないように、少しは寛大にするのがよい。このように人に利益を得させることは、つまり自分を利するための土台である」と語っている。要するに「退歩は前進を」「利他は自利へ」と導くのではなかろうか。

 また、“己を捨(す)てては、その疑(うたが)いに処(お)ることなかれ。人に施(ほどこ)しては、その報いを責むることなかれ”(同・前集89)

 即ち「自分の身を人のために献身的にするときには躊躇(ためら)うことなく実行すべきであるし、人に恩恵を施しても、それに対する報酬を期待してはならない」と語っている。昨今の世相は極めて自己中心的になり、自分さえよければ他を返り見ないという実に嘆(なげ)かわしい状況ではなかろうか。

 新渡戸稲造の生きた明治という時代にあって、これからの日本人はどうあるべきか、否、人間として「いかに生きるか」という問いに対して新渡戸稲造は明確に人格陶冶(とうや)に努めることを東洋の叡智(えいち)である「和」の精神で「融和(ゆうわ)の心」と「寛容の精神」を以(もっ)て養うことを求め続けていたと思われてならないのである。昨今の世相のなかで、今こそ、この「融和の心」と「寛容の精神」が求められているのではなかろうか。

無理をせず調和融合を

 おわりに、新渡戸稲造はこう述べている。

 “自国の時計はすでに正午を過ぎ、他国の時計がまだ正午の前にあっても、よく朝夕(ちょうせき)の差あるところを呑(の)み込んで、午前の仕事を午後の者に要求せず、また午後の務めを午前に繰り上げるごとき無理をせず、その調和融合を図るところに、世界の平和、人類の真の幸福があると信ぜらる”(『東西相触れて』)

(ねもと・かずお)

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