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消防団の歴史と共助の担い手

拓殖大学防災教育研究センター長・特任教授 濱口 和久

明治の近代化と共に始動
地域防災力の中核として育成を

濱口 和久

拓殖大学防災教育研究センター長・特任教授 濱口 和久

 消防団の歴史は古く江戸時代、徳川幕府第8代将軍の徳川吉宗が、江戸南町奉行の大岡越前に命じ、町組織としての火消組である店火消を編成替えし、町火消「いろは四十八組」を設置させたことが今日の消防団の前身であるといわれている。

 明治に入ると、政府は町火消を東京府に移管させ、明治3(1870)年に消防局を置き、町火消を改組して消防組とする。当時、全国的に公設消防組は少なく、ほとんどが自治組織としての私設消防組でしかなかった。おまけに、ほとんどが名だけで、活動をしている消防組は少なかった。この状況を改善すべく、政府は新たな消防組織の育成を図るため、明治27年2月9日に消防組規則(勅令第15号)を制定し、消防組を府県知事の管掌として全国的な統一を図る。この時点をもって、全国的な組織としての消防団制度が誕生した。

様々な変遷を繰り返す

 日本が日清戦争、日露戦争、第1次世界大戦を経験するなか、消防組は国内治安の第一線にあった警察の唯一の補助機関として、その任務を遂行しながら発展していく。政府は大正8(1919)年、勅令によって重要都市に常設消防を整備すべく「特設消防署規程」を公布し、該当する府県知事に対して特設消防署の設置を命じた。これが現在の常設消防署の始まりである。

 昭和に入ると、満洲事変、シナ事変、第2次世界大戦を経て、消防体制もその都度、見直されていく。昭和4(1929)年ごろから、軍部の指導により、民間防空団体として防護団が各地に結成された。防護団は、陸軍の指導の下に発足した団体で、昭和7年に東京市で最初に組織化される。陸軍肝煎りの団体であるが、「消防組規則(明治27年勅令第15号)」により法定化された消防組とは異なり、法的根拠がない単なる民間団体であった。そのため組織化も全国一斉に行われたのではなく、住民の防空思想が比較的高い6大都市を中心に結成され、陸軍の統制の下で防空活動をすることになった。

 昭和12年には「防空法」が制定される。国防体制の整備が急がれるなか、昭和13年に内務次官名で消防組、防護団の統一について「両団体統合要綱案」が通牒(つうちょう)され、勅令制定の基礎となる両団体統合の要綱が決定された。これらを経て、消防組と防護団を統合し、新たな警防組織を設けるため、昭和14年1月に勅令をもって「警防団令」が公布される。明治以来の消防組は解消し、警防団が同年4月1日に全国一斉に発足した。警察の補助機関として従来の水火消防業務に防空の任務を加えられて終戦に至る。

 戦後、米国調査団の報告により、警察と消防の分離が勧告され、昭和22年4月30日の消防団令の公布により、警防団が廃止され、新たに全国の市町村に自主的な消防団が組織されることとなった。同年12月23日に消防組織法(昭和22年法律第226号)が公布されると、消防が警察から完全に分離独立し、市町村の責務とされる。これを受け、昭和23年3月24日に新たな消防団令が公布され、消防団は義務設置から任意設置制になる。

 その後、消防団の根拠規定は政令ではなく法律に置くべきだとの考えから、消防団令は廃止され、消防組織法に消防団の根拠規定が盛り込まれることになった。以上のように、消防団は様々な変遷を経て、今日に至っている。

自主防災組織と連携を

 平成23(2011)年3月11日に起きた東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)では、災害対策基本法が想定していた被災地市町村の行政機関の災害対応の限界が露呈し、公助だけでは大災害に対応することが非常に厳しいことが明白となった。公助だけで対応できない部分は、共助が担う必要があり、その中心的役割を担うのが消防団である。

 消防団は、住民の安全を確保するために、自主防災組織などともしっかりと連携をしていかなければならない。地域防災力の強化には、住民一人ひとりの防火・防災意識の定着を図ることも大事となる。消防団という組織は、日本人の貴重な財産であり、今後も地域防災力の担い手として育成させていく必要がある。

(はまぐち・かずひさ)

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