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明暦の大火と防災都市「江戸」の建設

拓殖大学防災教育研究センター長・特任教授 濱口 和久

武家屋敷・寺社など移転
橋増やし道広げ火除地設ける

濱口 和久

拓殖大学防災教育研究センター長・特任教授 濱口 和久

 「火事と喧嘩(けんか)は江戸の華」という言葉が生まれるぐらい、江戸は火災の多い都市であった。

 江戸という都市の歴史は火災との闘いの連続であり、多くの人命を奪ったのは地震よりも火災だった。最も被害が大きかったのが明暦3(1657)年1月18日から20日にかけて起きた火災(明暦の大火)だ。関東大震災以前の江戸(東京)においては、日本史上最大の被害となった。ローマ大火、ロンドン大火とともに世界三大大火の一つに数えることもある。

市中の約60%が焦土化

 明暦3年1月18日午後2時ごろ、本郷(文京区)の本妙寺から出火した火災は、本郷から湯島、駿河台に燃え広がり、神田川南岸一帯を焼き払った。日本橋の埋め立て地に建つ霊巌寺(江東区)に避難した9600人が炎に追い詰められて亡くなっている。霊巌寺の火は、飛び火により海を隔てた佃島や石川島にも達し、火の手は隅田川を越えて吉原も瞬く間に焼失させ、多くの遊女が犠牲となった。小伝馬町の牢獄(ろうごく)では火が燃え移ったことで、町奉行の判断で囚人が解放されると、これを脱獄と勘違いした門番が浅草橋を封鎖。逃げ場を失った2万3000人が命を落とした。

 19日午前2時ごろに鎮火したが、午前11時ごろ、小石川(文京区)の新鷹匠町付近から再び出火。水戸藩の屋敷を焼いた火は、堀を越え飯田橋から市ヶ谷、番町へと延焼が拡大。やがて、江戸城の本丸、二ノ丸、天守も焼失した。その後も火の勢いは衰えず、京橋方面へと燃え広がり、日本橋、京橋などの橋が焼け落ち、焼死体が道路を埋め、堀割に落ちて溺死する人が多数出た。午後4時ごろ、今度は麹町(千代田区)の民家から出火。瞬く間に延焼し、大名屋敷を焼き、芝から愛宕下まで焼き尽くすと、20日午前8時ごろに新橋(港区)の海岸に至ってようやく鎮火する。

 明暦の大火による被害規模は、千代田区、中央区の全域、文京区の半分、そして、台東区、新宿区、港区、江東区のうち、千代田区に隣接する地域一帯が焼失。焼失総面積は2万574㌶といわれ、当時の江戸市中の約60%が焦土と化した。死者の数は諸説あり、正確な数字は分からないが5万~6万人といったところだろう。

 徳川幕府は鎮火すると、ただちに江戸市中に6カ所の仮小屋を建てて被災者に粥(かゆ)を配給した。幕府の浅草米蔵も被害を受けたが、第4代将軍家綱の後見役だった保科正之の指示により、焼け米も被災者に放出される。米価騰貴の抑止、材木価格騰貴の抑止、資金の下付などの救済活動も行われた。

 これまで江戸城内に置かれていた徳川御三家(尾張、紀伊、水戸藩)の屋敷を城外に移転させ、同時に諸大名の屋敷も城外に移転させた。跡地には馬場や薬園、幕府御用地などを設置し、延焼を防ぐための場所とした。

 寺社も大規模な移転が行われ、郭内から外堀の先の浅草、駒込、三田、四谷、品川などに移転する。武家屋敷と寺社の移転に伴い、町屋の移転も進んだ。移転先を確保するため海浜地域の埋め立てや、本所、深川が旗本屋敷や町屋の用地として整備されると、災害時の避難ルートを確保するため、隅田川には千住大橋に加えて、新たに両国橋と永代橋が架けられた。

 道路の道幅を5間(約10㍍)以上とし、特に日本橋通りは10間、本町通りは7間に拡幅。また、防火帯として火除地(ひよけち)や数多くの広小路も設けられた。火除地は空き地や防火堤を設けて火災の延焼を遮断するもので、南北に延焼する江戸の火災の特徴から、江戸城の北部から西北部にかけて集中的に配置された。さらに、橋を火災から守るための火除明地(ひよけあきち)を設け、植溜(うえだめ)という樹木などの栽培場を避難所とした。

定火消創設、町人と連携

 幕府は定火消(じょうびけし)制度を創設。江戸市中に火消屋敷を設け、日ごろより火の用心のための警戒、消防活動と火災時の治安維持に当たらせた。町人たちも自主的な防災組織を発足させ、定火消との連携を図り、火災が起きるのを未然に防ぐ活動や、被害の軽減に取り組み始めた。

 明暦の大火を機に、江戸は防災都市としての機能を備えた都市へと変貌を遂げていったが、その後も火災との闘いは続くことになる。

(はまぐち・かずひさ)

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