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神丘のインマヌエル開拓団

名寄市立大学教授 加藤 隆

息づく自由・独立の精神
重要な「家」としての関わり方

加藤 隆

名寄市立大学教授 加藤 隆

 北海道の南西部の今金町に神丘という地域がある。美瑛を思わせるなだらかな美しい田園が遥(はる)か向こうまで続いている。明治から戦時中まではインマヌエルという地名であったが、当時の戦時下状況もあって神丘と地名変更して今日に至っている。

 明治維新以来、北方の開拓という国策事業に呼応して、本州や四国を中心に幾多の日本人が北海道に渡ってきた。時代は幕藩体制の崩壊と四民平等による社会基盤の大転換の只中(ただなか)であり、加えて300年にわたったキリスト教禁制の高札が撤去されたのが明治6年(1873年)のことである。

連帯感や協働性を重視

 明治26年に神丘に入植したインマヌエル開拓団は宗教的なバックボーンを持つ開拓団の一つであった。その中心人物は新島襄から洗礼を受けた志方之善という同志社出身の若者であり、その妻は日本人の女医第1号である荻野吟子という女性である。加えて、丸山家の一族、高林家の一族、川崎家の一族、同志社の学生なども共に入植し、一つのコミュニティーが形成され、志方は一同に諮ってかねてから考えていた「インマヌエル」という地名を定めている。

 興味深いことだが、志方は地名を定めるとともに、コミュニティーに対して4条からなる憲法を定めている。「基督教主義ヲ賛成シテ移住スル者ハ、何人ヲ問ハズ、定域内ニ於イテ原野地一万五千坪ヲ託シ、成功ノ上十分ノ一ヲ教会費トナスコト」「移住者ハ自由自治ヲ重ンジ、各自独立ヲ図ルコト」などである。

 このように、インマヌエル開拓団では、自由自治や独立ということが非常に強調されており、他方では、農業開拓という性格上から連帯感や協働性ということも非常に大きな要素であったことがうかがえる。この自由とか独立ということは同志社の教育理念やその流れを汲(く)むプロテスタント会衆派の特徴と見ることができる。例えば、新島は同志社の一番の教育理念として「倜儻不羈(てきとうふき)」を掲げているが、これは信念と独立心に富み、才気があって常軌では律しがたいことを意味している。インマヌエル開拓団にも連綿と「倜儻不羈」の精神が息づいていたのである。

 話は変わるが、作家三島由紀夫は1970年に自死をするが、亡くなる数カ月前に預言めいた文章を残している。「このまま行ったら『日本』はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或(あ)る経済的大国が極東の一角に残るのであろう」。三島の危機感は、「経済をアイデンティティーの拠(よ)り所」と嘯(うそぶ)いていることへの警鐘ではなかっただろうか。

 あれから50年。我々は眼前に「無機的でからっぽ」な日本人の光景を嫌というほど見てはいないだろうか。このような或る経済的大国を思うとき、130年を経てなお堅実に信仰が継承され、美しい田園風景が広がる神丘の人々の姿に学ぶことは多い。

 一つは、コミュニティーを形成している根幹はモノではないということである。もし、人間がBody Mind Spiritで作られている存在であるならば、Spiritをしっかりと豊かにする文化が不可欠であることを三島は警告しているのではないだろうか。

 二つ目は、「個」ではなく「家」としての関わり方が重要であるという示唆である。インマヌエル開拓団は個人の判断で入植したというよりも、一族とか家族単位の総意のなかで入植を決断し、その後も親類縁者との強い絆を結んで生活を営み、信仰生活の歩みを築いている。個性の時代に反するような状況にも見えるかもしれないが、行き過ぎの個性尊重によって家が機能を失い、コミュニティーが崩壊の危機にある昨今を思うとき、再考するヒントを与えてくれる。

謙虚・誠実、質素な生活

 三つ目は、ワーズワースの詩ではないが「High thinking and Plain living」(高尚な思索と質素な生活)ということである。この神丘の多くの信仰者は畑作や牧畜業に携わっており、神学的には高邁(こうまい)なことは語らないかもしれないが、穏やかな表情や自然に対する謙虚で誠実な仕事ぶり、質素な生活が感化となって人々を引き付けている。

 神丘の郊外のなだらかな丘に十字架の墓碑が数多く並んでいる。一瞬、異国と錯覚してしまうほどである。そして、我々もまた開拓者ではないだろうか。荒涼とした現代という未開地を、実存を賭けて開拓せよと問われている気がするのである。

(かとう・たかし)

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