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国民に知らされなかった震災

拓殖大学防災教育研究センター長・特任教授 濱口 和久

鳥取、東南海、三河の3地震
大戦中、情報漏れを恐れた軍部

濱口 和久

拓殖大学防災教育研究センター長・特任教授 濱口 和久

 九州地方を中心に甚大な被害を出した令和2年7月豪雨。災害は豪雨だけではない。大地震が起きても甚大な被害が出る。今回の豪雨は、新型コロナウイルスの感染拡大が収束しない中で起きた災害だが、先の大戦(大東亜戦争)中も、日本は災害(大地震)に見舞われている。戦中、そして敗戦からの復興が始まった直後に起きた大地震は、国民に塗炭の苦しみを与えることになった。

津波と空襲が追い打ち

 昭和19(1944)年12月7日に起きた昭和東南海地震(死者・行方不明者1223人)は、世界各国の震度計に記録され、翌日の米紙ニューヨーク・タイムズの一面で「日本で巨大地震が起き、日本の中部地方が壊滅的な被害を受けた」と伝えた。

 日本国内では、戦意高揚につながらない報道は無意味とされる中、地震が起きた翌日が日米開戦3周年に当たる「開戦記念日」であり、新聞各紙は1面で昭和天皇の軍服姿を掲載した。唯一、地元紙の中部日本新聞(現・中日新聞)だけが3面の片隅で地震が起きたことを伝える程度で、まったく扱わない全国紙もあった。

 軍需工場の被害状況などの情報が米国などに漏れることを恐れた軍部によって、情報が統制されたため、大多数の国民は鳥取地震(昭和18年9月10日に起きた地震で、死者・行方不明者1083人)と同様に被害の状況を知るすべがなかった。特に愛知県は航空機の製造工場が集中する地域で、半田市には中島飛行製作所山方工場があったが、工場の建物が倒壊し、勤労動員によって働いていた中学生の多くが犠牲となる。この他にも多くの工場が被害にあった。沿岸部には大津波も襲来、三重県尾鷲市には地震が起きてから26分後に高さ2・7~9メートルの大津波が押し寄せた。

 被害状況が報道されなかったため、被災地には救援物資は届かず、復旧も復興も困難を極めた。そこに追い打ちをかけるように、米軍は地震直後の12月13日から、名古屋地域にB29の大編隊で空襲を繰り返した。

 最初の標的になったのは当時、日本の航空用発動機の4割以上を生産していた名古屋市東区にあった三菱重工業名古屋発動機製作所大幸工場である。空襲は昭和20年7月26日まで63回も行われ、B29の来襲は2579機を数えた。一連の空襲によって、航空機産業をはじめとする軍需工場は破壊され尽くされる。加えて、空襲によって死者7858人、負傷者1万378人、被災家屋は13万5416戸と甚大な被害を出した名古屋市は、地震と空襲の二重の痛手を負い、壊滅的な状態となる。日本の城郭の中で国宝第1号の名古屋城天守も、このときの空襲で焼失した。

 午前3時38分、昭和東南海地震から37日後にふたたび愛知県の三河湾を震源とする三河地震が起きる。死者の多くが激しい揺れで倒壊した建物の下敷きになった。

 昭和19年8月から名古屋市の国民学校の児童たちは、空襲を避けるため愛知県内に分散して学童疎開をしていた。現在の西尾市にも約1000人の児童が疎開し、寺院に分宿していたが、地震によって本堂が倒壊して児童が犠牲となる。地震の2日後には、伊勢神宮の外宮が米軍機によって爆撃されている。三河地震は歴史的にみても死者の数が多い地震であるが、鳥取地震、昭和東南海地震と同じく、戦時中ということで国民に知らされることはなかった。地震の起きた数日後に地震学者たちが現地調査を行ったが、すべて極秘扱いの報告書とされ、外部に漏らすことは固く禁止された。

復興遅らせた南海地震

 昭和21年12月21日に起きた昭和南海地震は、東は房総半島、西は九州に至る広い範囲の沿岸部が津波に襲われ、逃げ遅れて犠牲になった人も少なく、死者・行方不明者は1443人。和歌山県串本町周辺では、6・5メートル以上の大津波が町を襲い、高知県高知市では津波によって市内の広い範囲が水没する事態に陥った。遠くはハワイ諸島沿岸や、米国の西海岸にも達したことが報告されている。

 被害が大きかった地域は、戦後復興に長い時間を要したが、国民が一丸となって復興に取り組み、今日の日本をつくったのである。

(はまぐち・かずひさ)

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