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北海道を開拓したキリスト者

名寄市立大学教授 加藤 隆

理想郷の建設を目指す
新渡戸・新島らの薫陶を受け

加藤 隆

名寄市立大学教授 加藤 隆

 北海道は、平成30年に命名150年を迎えた。蝦夷地と呼ばれていた未開の大地は、明治新政府の北海道開拓により、明治2年の人口6万人が、150年を経て550万人の繁栄をみるに至った。移民には「移住士族集団」や「開拓結社団体」など、主には経済的理由からが多かったものの、それでは括(くく)られない移民も少なくなかった。いわば宗教的動機とでも言えるもので、特にキリスト教の動きが顕著である。極寒の地での開拓は苦労の連続であったことは想像に難くないが、明治期に入り日本の各地で芽吹いたキリスト教信仰が、北海道の地に集められ、それぞれに見事な花と実を付けていったことを実感するのである。また、そこには、新渡戸稲造、新島襄、内村鑑三など、時代を代表する人物との深い邂逅(かいこう)も垣間見られ、幾重にも人間模様が織り重なりながら北海道の地にキリスト教が広がっていったことを思わずにはいられない。本稿では、「北光社」(明治30年、北見)と「今金・インマヌエル団体」(同24年、瀬棚郡利別村)について触れてみたい。

 「北光社」の創立者である坂本直寛は坂本龍馬の甥(おい)として嘉永6年に土佐で生まれている。長じて、ベンサムなどのイギリス自由主義思想に共鳴して立志社に入り、当時屈指の革新的自由民権思想家として活躍した。また、明治18年には高知教会でナックスから受洗しキリスト教徒となっている。

 直寛が残した文書を見ると、海外移民への強い思いが伝わってくる。自身の回顧によると、旧約聖書「申命記」を読んで霊感に打たれ、モーセが約束の地カナンへと民を導いた偉業に自分を重ねて、将来はメキシコへの移民計画を持っていたことを記している。それが、どうして北海道へと転換したのかは定かではないが、彼の中では、未開の北海道も海外移民と同じ程度に開拓者精神を掻(か)き立てられたのかもしれない。坂本一族も含めて600人の規模である。

 興味深いことだが、彼は「北光社」創設を決意して現地視察に出掛ける直前の明治29年に、札幌農学校教授だった新渡戸稲造が主宰する夏期講話会で講演を行っている。講演では、アメリカ開拓に成功したピューリタニズムに倣って宗教教育の意義の強調と、開拓当局の保護政策が北海道民の依頼心を強めたと主張し、「自治独立の精神」を訴えている。まさに、これらは坂本と新渡戸に重なる宗教的核心であり、両者が口角泡を飛ばして語り合ったであろうことを髣髴(ほうふつ)とさせる。やがて、入植後、北光社農場は不可能と言われた道北での水稲耕作を可能にし、直寛は「北光社」ばかりではなく北海道を縦横無尽にした活動をして札幌で亡くなっている。

 もう一つは、「今金・インマヌエル団体」である。明治24年、京都同志社の学生で新島襄の薫陶を受けた志方之善は、同郷の先輩田中賢道が犬養毅や尾崎行雄と共同して瀬棚郡に広大な土地を道庁から借り受け、開墾の計画を立てていることを聞き、学友の丸山伝太郎、高林庸吉と話し合って北海道に移住し、キリスト教的理想郷を建設しようと決心したことに始まる。信仰的源流は新島の薫陶なのである。高林の回顧録によると、移住の動機を次のように記している。「国力を充実し、家を充実するには何処がよいか。北海道には不毛の原野がある。この開拓に向かうことが目下の急務である。…この考えは何処から生まれたか。生きた手本、同志社の校長新島襄先生の感化であったことは申すまでもない。…先生の一言一行は凡て愛国の至誠であった。どんな人でも国家のため全身全霊を尽せというのが教育の方針であった」。

 また、ある程度の共同体が神丘に形成された時期に、志方は次のような憲法を定めている。

 一、基督教主義ヲ賛成シテ移住スル者ハ、何人(なにびと)ヲ問ハズ、定域内ニ於イテ原野地一万五千坪ヲ託シ、成功ノ上、十分ノ一ヲ教会費トナスコト。

 一、大祭日、毎日曜日ヲ休業シ、他愛主義ヲ採り難苦無二相助ケ、猥(みだ)リニ貸借ヲ禁ズ。

 一、移住者ハ自由自治ヲ重ンジ、各自独立ヲ図ルコト。

 これは明らかにこの村を完全に教派を超えたキリスト教徒の村にしようという思想を垣間見ることができる。また、一緒に入植した志方の妻は、日本人初の女医である荻野吟子であることも歴史の妙味を感じさせる。

 ところで、この地に入植して4代目となる牧師は、貧しい農家だった自身の幼少期を振り返って、医師からも見放されるような栄養不足で生まれたこと、それにもかかわらず村落共同体の結び付きとともに、母が「アブラハムが祭壇にイサクを捧(ささ)げたように、我が子を主に捧げます」と、涙ながらに祈っていたことを回顧していた。神丘墓地を訪れるとき、そこに他を圧して立ち並ぶキリスト者の墓標群が今なお何かを語っている。

 さて、内村鑑三が人生の晩年に母校の北大講堂で語った言葉がある。「高いアンビシャスを持つのは、低いアンビシャスを持つよりはるかに善きことである。ある人の言うたごとくに、“失敗は罪ではない。目的の低いのが罪である”。高い目的を持つことが、人生を最も有意義に用うるゆえんである」。150年の歴史の中で、高いアンビシャスを持った人々が生きていたことに、道民の一人として誇りを感ずるのである。

(かとう・たかし)

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