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宮司が語る「白瀬南極探検隊と生田神社」

日露戦後の安逸風潮に活!

生田神社名誉宮司 加藤 隆久氏に聞く

 1912年、南極大陸に上陸した白瀬南極探検隊の壮挙は有名だが、幾多の苦難に直面した隊員たちの心を宗教が支えていたことはほとんど語られない。白瀬矗(のぶ)隊長は秋田県にある真宗寺住職の長男で、一方、学術隊事務長を務めたのは生田神社主典(権禰宜(ごんねぎ))の島義武だった。とりわけ島は各所で神事を主宰し、伊勢皇大神宮に祈願した。このたび復刻された島の著作を基に、加藤隆久名誉宮司に話を伺った。
(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)

国威発揚と国民精神の奮起
学術隊事務長は同社神職

生田神社の神職が白瀬南極探検隊にいたのですか。

 1930年に彼が著した『南極探検と皇大神宮の奉斎』が最近、復刻され、生田神社の神職・島義武が、わが国最初の南極探検隊に参加しているのを知りました。

白瀬が南極を目指したのは?

生田神社名誉宮司 加藤 隆久氏

 かとう・たかひさ 昭和9年、岡山県生まれ。甲南大学文学部卒業、國學院大學大学院文学研究科専攻修士課程を修了し、生田神社の神職の傍ら大学で教鞭を執る。神戸女子大学教授、生田神社宮司を務め、現在は名誉宮司。神社本庁「長老」。文学博士。神戸女子大学名誉教授。兵庫県芸術文化協会評議員、神戸史談会会長、世界宗教者平和会議顧問などを兼務。著書は『神社の史的研究』『神道津和野教学の研究』『よみがえりの社と祭りのこころ』他多数。

 白瀬は1861年、秋田県の浄土真宗の寺に生まれ、寺子屋の師から北極の話を聞き、探検を志すようになります。僧侶の学校に入りながら、探検への思いやみ難く陸軍の学校に転じ、陸軍輜重兵(しちょうへい)伍長、下副官に進み、予備役になると、児玉源太郎の助言で千島探検を志し、2年間越冬しています。

 1909年、アメリカの探検隊が北極点を踏破したことから、白瀬は目標を南極に変え、翌年に南極点到達を目指すイギリスのロバート・スコット隊と競争することにしました。費用補助は帝国議会が満場一致で可決したのですが、成功を危ぶむ政府は3万円を支出しなかったので、白瀬は渡航費14万円を国民に募ります。

 1912年までに各国の探検隊が約22回の南極探検を競う中、白瀬隊が南極の最終到達点に氏名を刻んだ銅製の缶を埋設し、日章旗を立てたのは明治日本の壮挙と言えます。日露戦争後の日本は、国民の間に奢侈(しゃし)と安楽の風潮が生まれていたので、白瀬は南極探検により国威を発揚し、国民精神を奮起させようと考えたのです。

隊の構成は?

 隊員27人のうち船長以下船員14人は海上隊で、白瀬隊長、学術部長ら12人は陸上隊、島は海上隊の事務長を務めました。日本人初の南極探検は全国民の熱烈な賛同を呼び、南極探検後援会が組織され、会長に大隈重信が就任しています。

 船は、かつて千島探検に使用された204トンの木造帆漁船を買い取り、中古の蒸気機関を取り付け改造し、東郷平八郎が「開南丸」と命名しました。隊員は新聞で身長・体重などの条件を付け公募すると、希望者が相次ぎ、神戸の神職の家に生まれ生田神社に奉職していた島もその一人でした。事務長になった島は、余裕のない予算で食糧や探検用具、防寒具などを準備するのに苦労しています。

南極への航路は?

 1910年11月29日、開南丸は大勢の見送りを受け芝浦埠頭(ふとう)を出港しました。大洋の怒涛(どとう)に島は「全く死人同様」になりますが、弱気になるたびに潮水でうがいし、伊勢皇大神宮に三拝九拝の祈願をしています。1911年の元旦に赤道直下に達したので、屠蘇(とそ)を酌み聖寿万歳をしますが、樺太犬は1頭を残して倒れ、水葬式を25回もしています。

 ニュージーランドのウェリントン港を経て南極の最北端を目指し、南緯70度圏内のロース海に入ると、そのころは一日中夜で流氷も見えず、隊員たちは上甲板に出て神仏に航海の安全を祈願したそうです。

 開南丸は帆柱を1本折られ、船首帆架も切断され、航行が不可能になり、オーストラリアのシドニー港に戻り、船体を修理することにしました。資金調達と報告のため隊員2人が一時、帰国し、それから7カ月間、テント生活を強いられます。

南極探検家・白瀬矗が命名した大和雪原(Wikipediaより)

南極探検家・白瀬矗が命名した大和雪原(Wikipediaより)

 資金も届き、元気を回復した一行は暖かくなった1911年11月、再び南極を目指し、まず南極大陸の沿岸の測量調査を始めました。上陸地を探して東に進み、翌12年1月17日に南緯78度35分のクジラ湾に達し、足場を見つけて白瀬隊長以下6人が上陸。郵船会社便で運ばれてきた樺太犬30頭や犬ぞり、食糧、防寒服、学術機器などを陸揚げし、氷上にテントを張って根拠地とします。本隊は犬ぞり2台で南極東大陸に向けて氷原を滑り出しました。

 大吹雪に苦しめられながら進んだ一行は、食糧が尽きる地点を日本探検隊の最終到着点と定め、後援者の芳名を記した銅製の箱を雪中深く埋め、その上に日章旗を立て、大日本帝国の領地と定めたのです。南緯80度5分、西経156度37分の地で大和雪原と命名されました。

島は?

 島らは別動隊を組織し、開南丸でエドワード7世州沿岸を測量、海岸近くに山領を発見し、岩石が露出しているので採集のため投錨(とうびょう)した湾を大隅湾と命名しました。そして2隊を編成し、島は4人で山を目指し、山腹で鉱石を採集し、皇祖伊勢神宮の大神を奉斎(ほうさい)し、全山を神奈備(かんなび)としました。当時を回想し、島は次のように記しています。

 「一行四人は、この山地を究めた記念として、島、多田、渡邊、柴田の四人の姓の頭字を集め、『したわしの山』と命名した。あわれ『したわしの山』よ、今もなお千古の謎を包みて、…淋しい南極の地に、日本人したわしと、我等同胞の再来を待ち受けておるであろうよ」

 その山は、第1次スコット隊が1902年に海上から命名したアレキサンドラ山脈で、実際に上陸し、山に登り、岩石を採集したのは島らが最初でした。

帰国後の島は?

 白瀬隊の測量記録や採集した鉱石、動植物などは貴重な学術資料で、1957年からの国際地球観測年に始まった南極観測で、「日本に資格はない」と反対するオーストラリアなどを抑え、参加が認められる根拠の一つとなりました。

 島は生田神社に復職しますが、南極探検について公言することは少なく、後に上梓(じょうし)した著作により初めて分かったのです。

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