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中世日本の形成と『太平記』

怨霊を鎮魂し平和を願う

市谷亀岡八幡宮宮司 梶 謙治氏に聞く

 戦国時代、来日したイエズス会の宣教師たちが日本理解のために学んだ代表作が『平家物語』と『太平記』。特に『太平記』は当時の公家や武士などの指導層に幅広く読まれて、一種の常識的な教養のように扱われ、街角に「太平記語り」の商売が現れるなど庶民の間にも普及していた。中世という時代と『太平記』について、中世文学に詳しい梶謙治・市谷亀岡八幡宮宮司に伺った。
(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)

広く読まれ 歴史認識深める
日本理解へイエズス会も学ぶ

中世に広く読まれた『太平記』とは?

市谷亀岡八幡宮宮司 梶 謙治氏

 かじ・けんじ 1965年、東京都生まれ。先祖は諏訪大社の社家。法政大学文学部日本文学科卒業、國學院大学文学部神道専攻科修了。27歳で父の跡を継ぎ、室町時代に太田道灌が江戸城の守護神として鶴岡八幡宮の分霊を祀(まつ)った市谷亀岡八幡宮の宮司となる。氏子による雅楽の継承やユニークなお守り、祈祷(きとう)など新しい神社の在り方にも積極的に取り組んでいる。著書に『神道に学ぶ幸運を呼び込むガイド・ブック』(三笠書房)がある。

 『太平記』は全40巻の長大な軍記物語で、後醍醐天皇の即位から鎌倉幕府の滅亡、建武の新政とその崩壊から南北朝の分裂、2代将軍足利義詮の死去と細川頼之の管領就任までの約50年間(1318~68年頃)を描いています。語り物なので、その都度書き換え、書き添えられ諸本があります。戦乱期の人間模様を描きながら「太平」と名付けたのは、怨霊を鎮魂し平和を願う思いからでしょう。

 イエズス会が日本理解のために『太平記』を選んだのは、公武の関係が興味深かったからです。イエズス会の戦略は支配層からの宣教ですから、戦国大名が何を学んでいるかに注目した。『太平記』には、武士社会の上下関係、氏と氏との争い、一所懸命の時代の所領における人間関係も描かれ、それが後の下克上につながります。

 公武、君臣の関係は、天皇と武士、権威と権力の関係で、これが江戸時代には朱子学や水戸光圀が編纂(へんさん)した『大日本史』などの影響で日本は天皇の国という意識が高まり、討幕・維新につながる思想運動となります。水戸藩の藤田東湖も『太平記』の影響を強く受けています。

軍記物というより歴史書、教育書的な趣もあります。

 君臣、主従の関係では儒教的な教訓話が多くあり、『平家物語』のような仏教的因縁話もあります。武功譚(ぶこうたん)の前後に武士としての振る舞い、因果応報の世の習いが語られています。いろいろな話が挿入されているので、『平家物語』よりは筋が分かりにくく、文学的な評価は低いのですが、人々に広く読まれ、影響を与えた点では重要です。

歴史観としては源平交代説が出てきます。

 武家政権は平氏(桓武平氏)と源氏(清和源氏)が交代するという俗説で、室町時代ごろから見掛けられます。平氏政権から江戸時代までの政権に当てはめてみると、平氏政権(平清盛ら一族)→源氏(鎌倉幕府を開いた源頼朝ら一族)→平氏(執権北条氏の得宗家)→源氏(室町幕府を開いた足利氏)→平氏(織田信長)→源氏(三日天下の明智光秀)→平氏(天下統一した豊臣秀吉)→源氏(江戸幕府を開いた徳川氏)となります。政権を担うようになった武士も、その根拠として天皇の支持を得ようとしたことは重要です。

 源平交代説は中国の易姓革命を日本に当てはめ、歴史の流れを説明しようとしたもので、日本人の間に芽生えた歴史観として注目されます。

神による天地創造と堕落、メシアによる救済という一神教の直線的な歴史観に比べ、日本人の歴史観は循環的です。

 インド由来の仏教の輪廻(りんね)転生と因果応報、中国の儒教・道教的な天道思想、循環する自然や生命現象などから、日本的な歴史感覚が形成されてきたように思います。

 中国に倣った律令制度が崩壊した後の中世は、武士が一所懸命で領地経営に励み、自分たちの生活圏を「国」として意識するようになり、また元寇(げんこう)による外国の侵略を体験し、日本という統一的な国家観、さらには神国思想が芽生えるようになります。「日本国」は人々が広く歴史認識を共有した中世に成立したとも言えます。日本人の国家観や歴史観は、時代を重ね繰り返し上書きされてきたものです。

イエズス会は全国を統一した豊臣秀吉が天皇を否定しないことに注目しています。

 天皇はローマ教皇のような宗教的権威であるだけではなく、官位叙任など世俗的な権威も保有する国王として欠くことのできない存在だと理解したのです。公武の併存が日本の権力構造の特徴で、天皇と天下人との2人から成るのが「日本国王」だと教皇庁に報告しています。

どう読まれていたのか。

 宴会などでも余興として『太平記』が読まれ、挿入されている和歌の記憶を競うような場面もありますので、それだけ知識人の間に普及していたのです。島津藩の家臣の間でも娯楽として『太平記』の読み聞かせがあり、伏見宮家の女性たちが朗読を聞いたという記録もありますので、女性にも読まれていました。今でいう国民文学と言え、その始まりは『平家物語』で、『太平記』には『平家物語』を読んでいないと理解できないくだりもあります。

 『太平記』に先祖の武功が記されると一族の誉れになるので、追記を求めており、それがいろいろな写本ができた理由です。

日本人の生き方としては。

 自然への感謝、怖れを基本に、天道に従い、因果応報を忘れず、先祖に恥ずかしくない生き方をするという日本人の原型がつくられたと思います。重要なのは、かなり一般化していたことです。それが日本人の歴史認識を深め、後醍醐天皇の建武の新政が明治維新の遠因になったと言われます。『太平記』は江戸時代の武士の間でも生き方のテキストのように広く読まれ、日本の国の在り方を探ると「天皇の治める国」にたどり着くので、やがて討幕思想になったのです。

天皇親政の主張では『神皇正統記』がより明確です。

 天下の人民は神のものであり、日本は神国であるから、統治者は神に背いてはならないと説かれ、天皇は血統的に神につながるとあります。もっとも、天皇が民を苦しめるようなことをすると神も支持しないのが道理なので、政治の善しあしによって天皇の運も左右されるとも説かれ、天皇自身も規制しており、絶対的な君主ではないのです。

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