«
»

西田天香と維摩居士

悟りより人々の救済優先

一燈園・燈影学園名誉学園長 相 大二郎氏に聞く

 京都・山科区に生活共同体の拠点がある一燈園を創始した思想家・西田天香は、仏弟子の中でも特に在家の維摩居士(ゆいまこじ)を尊敬していた。仏教立国を目指した聖徳太子が高麗僧の慧慈(えじ)から学び推古天皇に講義したのは、諸経の王と言われる『法華経』と『勝鬘経(しょうまんぎょう)』『維摩経』の三経。法華経には誰もが平等に成仏できるという仏教思想の原点が説かれ、

 勝鬘経は勝鬘夫人、維摩経は維摩といういずれも在家の人が説いた教え。それらが日本仏教の源流となる。天香さんの教えを受け継ぐ燈影学園名誉学園長の相大二郎氏に、西田天香と維摩について伺った。
(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)

在家のままで仏に
社会の底辺に降り再建

一燈園の庭には、西田天香夫妻の路頭像の背後に維摩堂があります。

一燈園・燈影学園名誉学園長 相 大二郎氏

 あい・だいじろう 昭和11年、一燈園で生まれ、西田天香の教えと生活を40年以上、体験してきた。慶應義塾大学文学部哲学科卒業。一燈園・燈影学園(小・中・高校)の学園長として長く教育に携わり、平成23年「教育者 文部科学大臣表彰」受賞。著書に『いのちって何?』(PHP研究所)『日本一小さな私立学校の大きなこころを育む教え』(PHPエディターズグループ)がある。

 青年期に北海道開拓の事業を手掛け、その挫折が思想運動の原点となった天香さんは、自身の生き方に在家の維摩居士を重ねていたところがあり、維摩について次のように語っています。

 「しいて師に当たるようなものを求めるならば、この維摩大士が適当なのであります。私は維摩経を初めて読んだときに、私が歩んできた道とあまりによく合うのに驚いたものです。からして、もし禅宗の僧堂に、修行する大衆のために祭ってある文殊大師のようなものが必要とするならば、一燈園の道場には、同人のために維摩大士を祭ればよいと思います。またもし学校と見立てて光を校長とすれば、維摩大士は教頭に当たるものであります」

維摩経とは。

 維摩の教えを伝える初期大乗仏教の経典で、旧来仏教を批判し、在家の立場から大乗仏教の軸である「空」の思想を述べています。日本では仏教伝来時から親しまれ、聖徳太子の「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」の一つ「維摩経義疏」をはじめ多数の注釈書があり、私の大学の卒論のテーマも「維摩経の空思想について」でした。維摩は中国でも人気があり、各地に絵や彫刻が残されていて、日本では興福寺の坐像がよく知られています。

 維摩経は全編が戯曲のような構成になっています。世話になった長者の維摩が病気になったと聞き、釈迦(しゃか)が見舞いに行くよう、弟子の舎利弗(しゃりほつ)や目連、迦葉(かしょう)はじめ弥勒菩薩(みそくぼさつ)など菩薩にも命じるのですが、みな維摩にやり込められたことがあるので行こうとしません。そこで、知恵の文殊(もんじゅ)菩薩が行くことになったのです。

 予想通り維摩と文殊は思想的な大問答になり、例えば、維摩が文殊に「無とは何か」と尋ねると、文殊は「無とは何もないことではない、有の対立概念として存在する」と答えています。

 維摩経の根本思想は「不二(ふに)の法門」で、対立概念を超えることです。仏教ではよく「煩悩即菩提(ぼだい)」と言います。悟り(菩提)とそれを妨げる迷い(煩悩)は、どちらも人間の本性の働きで、煩悩があるから悟りを求めるというもの。平たく言えば、悩みがあるから人は成長するという考えで、インド仏教の最終ランナーである密教に通じるものです。

近代合理主義は物事を分ける性質があります。

 善と悪、きれいと汚い、役に立つと立たないなど分けて対処しないと社会生活が成り立たないからです。しかし、そこには大きなわながあります。コロナ禍では感染者が社会的に排除される事例が多発し、問題になりました。それも二項対立的な思考の欠点です。維摩経では、善の中にも悪があり、悪の中にも善があるとします。現実の人間生活ではそれが事実でしょう。感染者に対しても、本人が悪いわけでもなく、自分もいつ感染者になるかもしれないと思うと、もっと寛容になれます。そう考えるのが「不二」の立場で、合理主義の欠点を補うものです。

「空」は難しい概念です。

 最後に文殊が「空とは何か」と問うと、維摩は返事をしませんでした。方丈の部屋で二人の問答を固唾をのんで聞いていた3000人の比丘(びく)や比丘尼(びくに)は、さすがの維摩も応答に詰まったかと思った時、文殊が「善哉善哉」と言い、沈黙によって究極の応答を示した維摩を称(たた)えたのです。「維摩の一黙雷の如し」で、言葉で答えたらその瞬間に空ではなくなりますから。

 興味深いのは、維摩経偈(きょうげ)に「もし大戦陣あらば、これを立つるに等力を以てし菩薩威勢を現じ、降伏して和安ならしむ」とあることです。単なる「力」ではなく「等力」と言っています。今の米中対立をはじめ諸々(もろもろ)の国際紛争に対しても「等力」とは何か考えさせられます。推古天皇に聖徳太子がどう説明したのか知りたくなります。

太子は14歳で物部氏との戦争に蘇我氏側で出陣しています。四天王に祈願し、戦いに勝利すれば寺を建立すると約束し、創建したのが四天王寺です。

 等力には徳の力など人間性全てを含み、武力も否定していません。太子は政治家でもあり、非暴力のガンジーとは違います。

ガンジーのイギリス製品不買運動は経済的圧力です。

 法華経には「怖畏軍陣中 念彼観音力 衆怨悉退散……」と、戦場で恐れおののく時にも、観音菩薩の力を信じひたすら念じていれば、諸々の恨みはことごとく消え去るというくだりもあります。日常的に維摩経と法華経を読むのが天香さんの一燈園生活でした。

 また天香さんはよく「太子は常に底の覚悟をしていた」と語っていました。社会の底辺に降りて、そこから立て直すということでしょう。そうした生き方を、天香さんは一燈園をつくる時にも意識していたと思います。

聖徳太子が維摩経を選んだ意義は。

 個人の悟りよりも人々の救済を優先する大乗仏教が日本に根付く大きな要因になったことです。以後、行基や空海など宗教者にして社会事業家という僧が活躍するようになり、在家のままで仏になれるとする維摩の教えは、日本人の生き方、倫理の基本になりました。

1

コメント

コメントの書き込み・表示するにはログインが必要です(承認制)。