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四国遍路と人生を考える

神仏はそばにいる

前総本山善通寺管長 樫原 禅澄氏に聞く

 空海の生誕地とされる総本山善通寺の前管長・樫原禅澄さんは、四国八十八カ所霊場の第86番札所志度寺の隣にある自性院常楽寺の住職。管長時代には四国遍路世界遺産登録推進協議会の会長を務めていた樫原さんに四国遍路と人生、救いについて伺った。(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)

お大師さんと一緒の「同行二人」
底辺の人々と交わった空海

今年は空海が大師号を下賜(かし)されてから1100年の年で、四国遍路が注目されました。

前総本山善通寺管長 樫原禅澄氏

 かしはら・ぜんちょう  昭和15年、香川県さぬき市志度町生まれ。高野山大学を卒業し常楽寺住職に。境内には檀家(だんか)だった江戸時代の発明家・平賀源内の墓がある。平成20年3月総本山善通寺法主・管長に就任し、平成30年3月に退任。気さくな庶民派で分かりやすい法話が人気。明るい社会づくり運動香川県東ブロック推進協議会会長を務めた。

 2004年に年金未納問題で党代表を退き、直後に妻がクモ膜下出血で倒れた菅直人元総理が歩き遍路に出て話題になりました。菅さんは9年かけ結願しています。池田勇人元総理も30代で奇病にかかった折、母親の友人に勧められて巡っています。鍵田忠三郎元奈良市長の『遍路日記』には、お大師さんに助けられて奇病が治ったとあり、池田さんは「私の考え方の基本はあのときの体験にあるように思う。千百年の昔、弘法大師が歩かれた三百六十二里の道を歩いた人は、天の導きを感じるだろう」と述べています。高野山の奥之院の一番近い所に池田家の墓があるのも、そんな思いからでしょう。

 空海は日本人が最もよく知る僧で、温泉や水を掘り当てたという伝説が全国にあります。例年、初詣客が第2位の成田山新勝寺には弘法大師が開眼した不動明王があり、3位の川崎大師は真言宗の寺で、4位の伏見稲荷も弘法大師に関係しています。知多半島の八十八カ所には禅宗や浄土宗の寺も含まれ、釈迦(しゃか)像や阿弥陀仏(あみだぶつ)の横に弘法大師像が祀(まつ)られていても抵抗を感じません。それくらいお大師さんは宗派を超えて信仰されています。

 お遍路さんが被(かぶ)る菅笠(すげがさ)に「迷故三界城 悟故十方空 本來無東西 何處有南北」と書かれているのは、「とらわれてはいけない」「いつでも、どこでも修行」という意味で、弥勒菩薩(みろくぼさつ)の梵字(ぼんじ)は、将来、弥勒が現れるという大師の誓いを示しています。

 納札に「天下泰平」「家内安全」とあるのは大師の気持ちで、個人的なことだけでなく、社会的なことも願いながら巡ります。徳光和夫アナウンサーは、夫人の関節炎や孫の大学受験を納札に書いていたのですが、東日本大震災の被災者のことを祈るなど、次第に社会的なことをお願いするようになったそうです。

 子供ができるよう願って四国を回った北海道の人に感想を聞くと、いろいろな人と出会い、子供を授からなくても幸せになれることが分かったと言っていました。その2年後、その人は子供ができたお礼回りに来ました。大阪の老婦人は、遍路をしてから、自宅の前だけでなく隣の家の前や近くの寺社の掃除もするようになったそうです。

 松本清張は「大学を中退した以後の十数年間の空海は、おそらく社会の底辺を徘徊していたのであろう。空海がのちに民衆の心を獲得したのは、この時期に底辺の人びとと交わったのが効果としてあらわれたのだと思う」と書いています。

 お大師さんの座右の銘は、「人の短をいうことなかれ、己の長を説くことなかれ」「人に施して慎んでおもうことなかれ、施しを受けては慎んで忘れることなかれ」です。

四国遍路の総行程は約1400㌔で、全コースを歩いて踏破するには、足の強い人でも40日はかかります。

 何度かに分けて札所を巡るのが一般的です。このような聖地巡礼は世界各地にあり、日本だけでも300近い霊場が各地に点在しますが、四国遍路のように88カ所も巡るのは珍しい。

 四国遍路は弘法大師が42歳の厄よけに開創したとか、高弟が始めたとも伝わりますが、はっきりしたことは分かりません。平安後期には原型ができていたことが、『今昔物語』の説話や『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』巻2の今様からうかがえます。

 当時、四国遍路に出掛けたのは修行僧で、庶民ではありませんでした。現存する遍路道の最古の道標は南北朝時代の年号で、また1471年制作の鰐口(わにぐち)(仏堂正面に吊(つる)された平たい鉦(かね))に88の寺院名が刻まれているので、応仁の乱の頃には成立していたのでしょう。

 戦国時代に入ると、遍路道に一般の人々の姿も目立つようになります。そして、江戸時代前期に、高野山僧の寂本(じゃくほん)や行者の真念(しんねん)が、今でいうガイドブック『四国遍路霊場記』などを著し、四国八十八カ所の霊跡を紹介したことで、四国遍路は一挙に裾野を広げました。印刷技術が進み、瓦版や四国遍路の地図なども出て盛んになります。

 木や銅の札を本堂の柱や壁面に打ち付ける納札の風習が起こり、寺院が札所と呼ばれるようになったのも江戸時代のことです。札所は「回る」のではなく「打つ」と言うのは、木の札を釘(くぎ)で打ったからです。都から遠く離れた四国は辺地(へじ)と呼ばれていたので、辺地が遍路になったのです。歌舞伎にも取り上げられ、庶民信仰の一つとなります。

お遍路さんの数は。

 年間約20万人で、それほど多くはありません。うち外国人が7~8万人で、信仰上の共通点を探して来るのだと思います。

どうして88カ寺に。

 寂本は、煩悩を消す巡礼なので煩悩の数だけ札所があり、道順も煩悩を消すのにふさわしいものになっていると言っています。重要なのは「同行二人」つまりお大師さんと一緒に歩くことで、それを寂本は強調しています。仏教の救いの形にはいろいろありますが、「お大師さんと一緒」というのはあまりありません。おそらく寂本が巡りながら「これが真言宗の救いだ」と実感したのでしょう。

遠藤周作の「同伴者イエス」と似ています。

 それが日本人の救済観に合っているのでは…。神仏は遠くにいるのではなく、私たちのそばにいるのです。寂本も徹底的に生きることを語っています。生きることに執着すれば煩悩も生きてくると。まさにお大師さんの煩悩即菩提(ぼだい)、即身成仏です。

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