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森鷗外の遺言と神道の死生観

乃木大将殉死で作風一転

生田神社名誉宮司 加藤隆久氏に聞く

 世界で死者が100万人を超えたコロナ禍の中、思い出したのが「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」という森鷗外の遺言。宗教の核心は死生観で、日本人の生き方を宗教的に表現してきた神道は死をどう説いてきたのか。

 明治の国づくり、とりわけ国民のアイデンティティーに関わる宗教政策に大きな影響を及ぼした津和野教学に詳しい生田神社の加藤隆久名誉宮司に伺った。
(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)

テーマは一貫して「家」
神道、霊魂が子孫見守る

森鷗外の遺言をどう思いますか。

加藤隆久

 かとう・たかひさ 昭和9年、岡山県生まれ。甲南大学文学部卒業、國學院大學大学院文学研究科専攻修士課程を修了し、生田神社の神職の傍ら大学で教鞭(きょうべん)を執る。神戸女子大学教授、生田神社宮司を務め、現在は名誉宮司。神社本庁「長老」。文学博士。神戸女子大学名誉教授。兵庫県芸術文化協会評議員、神戸史談会会長、世界宗教者平和会議顧問などを兼務。著書は『神社の史的研究』『神道津和野教学の研究』『よみがえりの社と祭りのこころ』他多数。

 「死ハ一切ヲ打チ切ル重大事件ナリ、奈何ナル官憲威力ト雖此ニ反抗スル事ヲ得スト信ス、余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス、宮内省陸軍皆縁故アレドモ生死別ルヽ瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辭ス、森林太郎トシテ死セントス、墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可ラス」というものですね。

 大正11年7月9日に60歳で亡くなる6日前、遺言を口述筆記した親友の賀古鶴所(つるど)は次のように伝えています。

 「6日の朝、電話で来てくれというので行くと、『自分は一個の石見の人、森林太郎で死にたい。死んだ以上、総ての事はお上へ対し無礼にならないようにしてくれ。墓標は中村不折君に書いて貰ってくれ。単に「森林太郎墓」とし、一字も加えてくれるな』と遺言し、其夜から漸次昏睡状態に入り、9日の朝7時に絶命いたされました」

 死に臨んで鷗外は己を「石見の人」と自己規定しました。そこで生まれ、幼少期を過ごし養老館で教育を受け、人となった地です。出郷してから生涯、帰らなかった津和野を墳墓の地とし、鷗外の精神は「父祖の地」へ「私」として回帰したのです。

鷗外の魅力は。

 鷗外の運命は明治維新によって開かれたといえ、国家の近代化と軌(き)を一にして、自己形成を成していきました。軍医にして文豪という二つの生涯を生き、しかも、国家の近代化と共に歩んだ一生には、醒(さ)めた人の苦悩と悲哀とがあります。

 作家が時代状況の中で抱え込まざるを得ない問題と、国家が近代化する上で内包している問題との衝突、葛藤は避け得ないからです。明治の日本が西欧列強と肩を並べるべく富国強兵の道を進む中で、鷗外は終始、矛盾や挫折感を感じ続けました。

 ひたすら自己完成を求め、一つの生涯を貫く方が上手な生き方かもしれません。鷗外は自己を鞭(むち)打ちつつ、強靭(きょうじん)な精神で個人と公人の二つの生涯を闘い続けたのです。それゆえ、生き方と文業に魅力があります。

津和野で受けた教育は。

 鷗外は1862年、石見国(いわみのくに)(島根県)津和野に津和野藩御典医(ごてんい)の長男として生まれました。5歳から藩校の養老館で『論語』や『孟子』、さらに蘭学も学びます。明治5年、10歳の鷗外は父と共に上京し、親戚の西周(あまね)宅に寄宿して、東京医学校(後の東大医学部)に入学し、28人中8番の成績で卒業します。

 西南戦争が終わると、政府は外国人教師に代わる日本人の育成を目指し、東大卒業生の成績1、2番を文部省派遣留学生として西欧に送ります。鷗外は西欧留学の志高く、陸軍省に入り軍医に内定すると陸軍軍医副になり、東京陸軍病院に勤務して官吏への道へと進んだのです。明治17年、衛生学を修め、ドイツ陸軍の衛生制度を調べるため、陸軍省派遣留学生としてドイツに渡ります。

 帰国は明治21年で、その直後、ドイツ人女性が来日して一月滞在し、これが小説「舞姫」の素材となります。作家活動の開始は明治22年、読売新聞の付録に発表した「小説論」で、以後、小説家・翻訳家として医師と二足の草鞋(わらじ)を履き、小説『うたかたの記』や翻訳『ファウスト』など発表します。

 ところが、大正元年9月13日、明治天皇の大喪の礼が行われた日の夜、乃木希典大将が夫人と共に殉死したのを機に、作風を一転させます。直後に発表したのが短編『興津弥五右衛門の遺書』で、次が代表作となる『阿部一族』です。以後、鷗外は歴史小説だけを書き続け、テーマは一貫して「家」でした。

コロナ禍で多くの人が死を考えるようになっています。

 私が研究してきた津和野の国学者・岡熊臣(くまおみ)は著書『千代の住処(すみか)』で、いかなる人も死に臨んで不安な心情に思い悩むことを指摘しています。科学が進歩し、合理主義の現代社会においても、死に臨む心情は昔とあまり変化がないものと思われます。どんな人にも“死”は必ず訪れ、待ったなしでやって来ますから。

神道の死生観は。

 近世の代表的な国学者である本居宣長は、死後は「きたなくあしき所」である黄泉(よみ)の国へ行くほかないのだから、そういうものとして受け止めるほかない、と教えています。宣長は、死への恐怖や不安は、極楽のようなあの世において解消されるものではなく、そもそも期待していないのです。これに対して平田篤胤は、「霊魂は不滅で、幽冥界に生き続け、幽冥界より現世は見分でき、死後の霊は現世の人と祭りを通して交わることができる」と説いています。

 両者の中間が岡熊臣です。人間の霊魂は産霊神(むすひのかみ)から授かったもので、この世に残り留まる魂と、本元の死に赴く魂とがあり、死後、黄泉の国へ行くのは清らかな本元の魂だとしました。

 こうした死後の霊魂観を身に付けることにより、死に直面しても安心立命できると考えたのです。三者の死後観に相違はあっても、死後の霊魂はこの世に留まり、子孫らの生成発展を守護することでは一致しています。

 民俗学の柳田国男は、死後の霊魂は山上に留まり、この世の発展を見守るという1元的な死後の世界を主張しています。これに対して折口信夫は2元的世界を強調し、人生を全うした霊魂は、神の国へ行くが、横死や不慮死などした霊魂は罪を浄めるため煉獄(れんごく)のような世界に行くとしています。死後の霊魂が祭りを通してこの世の人と交流するという説では一致しています。

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