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空海から弘法大師へ

高野聖と庶民が広めた信仰

前総本山善通寺管長 樫原禅澄氏に聞く

 今年は、空海が延喜21年(921)に醍醐天皇から「弘法大師」の諡号(しごう)を賜ってから1100年の記念すべき年。大師号を賜った高僧は27人いるが、単に「大師」と言えば弘法大師を意味し、四国では親しみを込め「お大師さん」と呼ぶ。全国に広まった大師信仰について前総本山善通寺管長の樫原禅澄さんに伺った。
(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)

醍醐天皇が諡号を下賜
幸せもたらす来訪神

斎藤昭俊大正大学名誉教授は、「弘法大師は一般の人達から一宗の祖師というよりも超宗派的に神格化された一つで人格であります」と『弘法大師信仰と伝説』(新人物往来社)で述べています。

前総本山善通寺管長 樫原禅澄氏

 かしはら・ぜんちょう 樫原さんは昭和15年香川県さぬき市志度町の生まれ。高野山大学を卒業し常楽寺住職に。境内には檀家だった江戸時代の発明家・平賀源内の墓がある。平成20年3月総本山善通寺法主・管長に就任し、平成30年3月に退任。気さくな庶民派で分かりやすい法話が人気。明るい社会づくり運動香川県東ブロック推進協議会会長を務めた。

 空海が弘法大師と呼ばれるのは没後約90年で、東寺長者の観賢(かんげん)の奏上(そうじょう)を受け、醍醐天皇が「弘法大師」の諡号を下賜したことによります。これが「大師信仰」の始まりで、杖(つえ)で岩を打つと水が出た、温泉が出たなどの弘法大師に関する伝説は、北海道を除く各地に5000以上もあり、歴史上の空海の足跡をはるかに超えています。それを広めたのは日本全国を勧進(かんじん)した高野聖(こうやひじり)たちと弘法大師を崇拝する庶民です。

 その意味では、多くの宗派が日本仏教の祖師と崇(あが)める聖徳太子に似ていて、真言宗の実際信仰である大師信仰も、太子信仰と一つになることで現在のように広く伝えられたと言われます。両者とも多芸多能で、幸せをもたらす来訪神(まれびとがみ)と思われ、それらを古来からの祖霊信仰が支えているのが大師信仰の構造です。

高野聖とは。

 中世に高野山を本拠とした遊行僧のことで、全国に出向いて勧進と呼ばれる募金活動のために布教、唱導、納骨などを行いました。もっとも、彼らの教義は真言宗よりは浄土教に近く、念仏中心の独特のものでした。

 行基が率いた集団のように遊行僧は奈良時代に登場し、高野山では平安時代に道場が開かれてから集まってきました。よく知られているのは、藤原信西(しんぜい)の子・明遍(みょうへん)や、源平の争乱で焼失した東大寺を復興した重源(ちょうげん)らがいます。

 高野聖は複数の集団をつくって高野山内に居住し、一般的に妻帯し、商人を兼ねていました。最下層の僧侶でしたが、実際的に寺を支えたので、やがて高野山の一大勢力となります。こうした聖は高野山に限らず、全国の大寺院にいて、勧進などに従事していました。

 高野聖は諸国に高野信仰を広める一方、連歌会を催すなどの文芸活動で民衆に親しまれました。しかし、「高野聖に宿貸すな、娘とられて恥かくな」と俗謡に唄(うた)われるほど俗悪化したり、スパイ活動をしたりしたため、織田信長により千人以上が殺害されています。江戸時代になると幕府が檀家(だんか)制度を進めたことから活動が制限され、次第に衰えました。

 『高野聖』を著した大谷大学名誉教授の五来重(ごらいしげる)さんは、古代の葬送儀礼「殯(もがり)」に従事していた遊部(あそびべ)が、殯が廃止されて火葬に変わったのに伴い、行基の集団に転入したのが聖の始まりだとしています。行基は官僧ではなく私度僧ですが、集団の力で橋や池、街道などの整備をしたことから公認され、朝廷に請われて、東大寺の大仏造立(りゅうぞう)にも協力しました。

四国4県が世界遺産にしようと運動している「四国八十八か所霊場と遍路道」も大師信仰の典型です。

 空海が四国八十八か所を開創したのは平安初期の815年とされます。弘法大師を崇拝する多くの僧が、修行のためその足跡をたどったのが始まりで、88の寺院が定められたのは室町時代以降のこと。江戸時代には空海が42歳の厄除けで遍路を行い、その翌年、嵯峨天皇から高野山を拝領したとの伝承が生まれます。生活のゆとりから一般庶民も巡礼するようになると、今でいうガイドブックも出版されます。ほかにも西国三十三所観音霊場、熊野詣、善光寺参りなどの巡礼が流行しました。

空海の教える「即身成仏」とは。

 即身成仏は中世以降、自殺の意味で使われ、実行されていたのですが、空海は文字通り、身に即して仏に成る、自分の体でブッダの境地になるとしたのです。それを説いた一節に「仏法は遠いものではない、心の中の問題で誰にも身近である。真如(しんじょ)=真実の生き方は体の外にあるのではない、この身を棄てて、どこに求めようとするのか、迷うか悟るかは自分の中にある、発心すれば(真実の生き方を自覚し、行動しようとすれば)実現できる」とあります。生きているのはこの体なので、体を棄てては何にもならない、体をもってブッダになれる、と空海は繰り返し主張したのです。

 空海が著した『即身成仏義』の核心は華厳経の教えで、空海がまとめた偈(げ)を読み下すと「六大は無礙(むげ)にして常に瑜伽(ゆが)なり、四種の曼荼羅(まんだら)おのおの離れず、三密加持すれば速疾(そくしつ)に顕(あらわ)る、重々帝網(たいもう)なるを即身と名付く」。意味は「六大(全ての存在)は永遠に障りなく結び付き溶け合っている、四つの曼荼羅(全存在を表す絵)は真実相を現し、互いに離れないでいる、三蜜(身密、口密、意密)が応じ合えば速やかに世界のあり様が見え、重なり合い帝網のようになっている世界のあり方を即身という」となります。

 瑜伽はヨーガ、元の意味は牡牛を牛車(ぎっしゃ)につなぐ綱のつなぎ目のことで、結合を意味します。帝網はインドの世界観で、神が広げた網、あるいは神が存在する網状の世界のこと。つまり、世界はわが身に即してあり、外にあるのではない、世界は網の目のようにつながり合っているというのが即身の意味です。

真言宗の三密は、身体・行動と言葉・発言、心・考えのことですね。

 空海・弘法大師は、世界は一つの大きな運動体、活動体であるとし、そういうあり方を自分の体に受け入れ、それと一つになれば成仏できる、ブッダと同じ境地になれると唱え、そのごとく生きたのです。

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