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宗教者の在り方

人々に寄り添う宗教者に

称讃寺住職 瑞田 信弘師に聞く

 価値観の多様化にネットの発達などで、人々の宗教意識も変わりつつある。人口減少に加えて宗教離れ、後継者難などで存続できない寺が増える中、宗教者の在り方として「心に寄り添う」ことが求められている。浄土真宗本願寺派(西本願寺)住職で幅広く社会活動を行っている瑞田(たまだ)信弘師に考えを伺った。
(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)

大震災で心のケア
社会的存在意義問われる寺

昨年12月19日、称讃寺の報恩講で講演した島薗進上智大学教授は、東日本大震災を契機に設立された日本臨床宗教師会の会長で、悲しみに寄り添うことの大切さを語っていました。

瑞田信弘師

 たまだ・のぶひろ 1955年香川県高松市生まれ。大学卒業後、公立学校教師となり、その後、飲食店を経営しながら専門学校で講師を務める。98年、先代住職の父親の死去に伴い、称讃寺第16代住職を継職。地元FM局のトーク番組に出演、文化講座で親鸞を語る。よろず相談を受ける一般社団法人「わ ライフネット」の代表理事。著書は『ただでは死ねん』(創芸社)。

 東日本大震災では多くの宗教者が被災地に入り、犠牲者の慰霊をしたり、被害者の心のケアなど支援活動に携わりました。とりわけ、以前から宮城県を中心に患者のターミナルケアを行っていた岡部健医師が、患者の多くが抱えている死の不安に医師では対応しきれないことから、日本人の宗教性にふさわしい日本型チャプレンのような宗教者が必要であるとして提唱したのが臨床宗教師で、岡部医師は2012年にがんで亡くなります。

東北大学にはそのための寄付講座も開設されました。

 私の息子も東北大学にいて一度だけ受講したのですが、面白くなかったのでやめたそうです。私も臨床宗教師の話を聞くと、死を間近にした人だけでなく、普段から人々に密着すべきだという、今のお坊さんに対するお叱りのように感じます。

看取り士も生まれました。

 病院死が80%を超え、家族の死を身近に体験する機会が減っている中、自宅死する家族にどう接したらいいか分からない人が増えたからでしょう。その段階からお坊さんが関わればいいのですが、亡くなってから寺に連絡がくるのが実情です。

一方、直葬や家族葬が増え、葬式をしない人もいます。

 葬式や法事で生計を立てている末寺住職の多くが危機感を持っています。伝統儀礼がなくなることは、それに携わる人も不要になることですから。高松市では最近、老舗のギフト店が倒産しました。葬式で香典を受け取らず、返礼もしないというのが、かつては2割くらいでしたが、最近ではほぼ半分です。葬式の参列者も一様に減少しています。お寺も社会的な存在意義が問われているように思います。

お坊さんが病院に入るのを嫌う風潮があります。

 診断した医師が死亡宣告して死が確定するという制度ができる前は、生と死の境はあいまいで、お坊さんが「亡くなりました」と告げ、枕経(まくらぎょう)を上げるのが死の知らせでした。死んだ後もしばらくは温かいし、髪の毛やひげは伸びます。だから、古来は「もがり」という、死者を本葬するまでのかなり長い期間、遺体と一緒に過ごし、別れを惜しみながらその変化を確認するという儀礼がありました。

 枕経は、亡くなっていく人を仏弟子にして往生してもらうために、臨終を迎えつつある方の枕元で上げるのですが、現在では亡くなってからの読経が一般的で、聞いているのは遺族たちです。死んでからが出番だという思いがお坊さんにもあり、向き合っているのは残された遺族たちです。臨床宗教師となると、確かにそれが自分の使命だと考えるようになるでしょう。

死の質(QOD)も問われています。

 先日、日本尊厳死協会四国支部のシンポジウムに招かれ、僧衣で参加しました。問題になっていたのは、安楽死に医者が手を貸すと自殺ほう助で罪に問われることです。延命治療の方法があれば、患者や家族の意向にかかわらず、そうしたいという医者が大半だそうです。

死に対する不安の大部分は、死後どうなるのか分からないことにあります。

 それはお坊さんも同じで、体験した人はいませんから。浄土宗系の教えだと、阿弥陀如来がお迎えに来て、浄土で懐かしい人たちに会えるということで、それを信じると生きやすいことは確かです。

 浄土真宗では亡くなるとすぐ浄土に行くことになっているのですが、お骨になって帰って来てからの初七日法要でも、「まだ近くにいるのでしょう」とか、35日目くらいだと「地獄の入り口で裁判にかけられているの」「閻魔(えんま)様はどんな人」とか聞かれます。いずれにせよ、亡くなったら無になって終わりという人はあまりいません。そういう人たちに、教えを押し付けるのではなく、話を聞きながら、故人のことを一緒に思うようなお坊さんでありたいですね。

念仏宗には死に逝く人に寄り添ってきた歴史があります。

 釈迦(しゃか)が説いた仏教は悟りを開くのが目的ですから、坐禅(ざぜん)を組む禅宗が近いのかもしれません。それに対して、法然の「南無阿弥陀仏」を唱えるだけで浄土に行けるというのは釈迦の教えではない、と言われることもあります。しかし、開祖の教えがそのまま続くより、時代や社会に応じて変容したから続いている宗教の方が多いのです。念仏宗(浄土宗)が広まった契機の一つが、誰にも看取られずに野垂れ死にしていく人たちを丁寧に弔ったからだとされています。

価値観の多様化で難しくなっている面もあります。

 個人個人の考えを尊重することは大切ですが、風呂敷のように日本人を大きく包んでいる仏教的な死生観があるように思います。話を聞いているうちに、檀家さん自身が気づいていくのが日本の宗教文化なのでしょう。

死生観は一人ひとりが見いだしていくものです。

 ところが、お坊さんの多くは、話を聞くより説教する方が好きです。西本願寺も「心に寄り添う」よう呼び掛けていますが、自分は偉いと思い、門徒より本山の方を向いている人が多く、そんな人ほど出世しています。

 今は人々に寄り添わないとお寺も生きていけない時代です。地域のために役立つお寺になるため、お坊さん自身が宗派を超えて役割を再認識し、意識改革していく必要があります。

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