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千葉・ベトナム人女児(リンちゃん)殺害事件について考えたい

社会全体に衝撃を与えた陰惨な事件

 千葉県松戸市で信じられない事件が起きた。言うまでもないが、ベトナム人児童殺害遺棄事件である。事件の容疑者は児童が通う学校の保護者会の会長で、登校中の女子児童を自宅のキャンピングカーに連れ込み、殺害し、死体を遺棄した容疑で逮捕された。報道によれば、容疑者は以前に勤めていた職場の同僚からは「ロリコン(幼児・児童への性的志向)傾向があった」と指摘されており、保護者会会長にも立候補してなったという。また女子児童とは面識もあり、会うとハイタッチをする間柄だったようだ。

レェ・ティ・ニャット・リンさん

殺害されたレェ・ティ・ニャット・リンちゃん

教育行政、学校運営の“落とし穴”

 この事件は、教育行政や学校運営に関わる人達がこれまで行ってきた事、言ってきた事が、事件の防止にまったく役に立たなかったという点で衝撃的である。例えば、集団登校の廃止だ。かつては交通安全や誘拐事件の防止を目的として、多くの学校で集団登校が行われていたが、各班の班長になる児童への負荷が大きいという理由や、登校中への自動車突入事件などをきっかけにして、それを廃止する学校が増えている。その代わりとして、保護者による見回り活動をするのも近年の傾向である。今回は、それが全て裏目に出てしまった。また、「地域の人と顔見知りになる事が防犯に繋がる」というのも学校関係者の中では常識だった。すなわち、児童を誘拐・殺害するのは「他所の人」であり、児童が普段から地域の人と人間関係があれば「他所の人」と一緒にいたら、「○○ちゃん、そのおじさん誰?」と声をかけてもらえる、という理屈だ。また、保護者と教師の連携という建前のPTA(Parent Teacher Association)を廃止して、保護者だけをメンバーとする保護者会を設立するのも近年の流行である。そして、本事件の舞台となった松戸市立六実第二小学校には、これらすべてがそろっていた。

事件を引き起こした2つの動機

 一連の傾向を促進するのは次の2つの動機である。

 一つは学校運営にまつわる負荷を忌避する姿勢であり、その背景には公的部門への市場原理の導入という思想が存在する。税金で運営されている学校は、他の行政機関と同様、行政サービス・教育サービスの送り手にすぎないので、サービスの受け手である児童生徒や保護者の負担は少なければ少ないほど良い。だとすれば、班長への加重な負担(例:集合時間に遅れた子を家まで誘いに行く)を強いる集団登校や、教師との意見のすり合わせが必要なPTAは無用の長物だ。登校は各人がやれば良いし、登校に遅れるのは児童や家庭の自己責任である。保護者はタックスペイヤーとして学校に要求する側なのだから、教師と協同するのではなく保護者だけでまとまって行動すれば良い。正直に言えば、私は、これはこれで筋が通っていると考えている。

 もう一つは、科学的に検証されていない思い込みだ。一人で登校する場合と集団登校する場合で、後者の方が交通事故の危険度が増すというデータはないが、自動車が歩道に飛び込み死傷者が出た場合のニュースバリューは全く異なる。そして報道により学校関係者は、集団登校の方が交通事故の危険が増すと思い込むのである。また、児童殺害の加害者は家族や顔見知りが圧倒的に多いのだが、昭和時代の残滓として「他所の人」への警戒感は地方だけでなく都会にも色濃く残っている。

社会の中の「学校」とは何か?

 今回の事件は、私たちに「学校を社会の中でどう位置付けるべきか」を厳しく問いかけている。

 学校は単なる教育サービスを提供する機関なのか。それならばそれで良い。しかし、だとすれば図書館で騒ぐ子供を司書がつまみ出すように、集団教育に馴染まない子供を排除する権限を教師に与え、彼らのための矯正施設を別途作るべきだ。問題児に甘すぎる現在の学校のフィロソフィーは、多数派である真面目な子供の教育サービスを受ける権利を侵害している。サービス機関への送迎は保護者が自己責任でやればよい。

 学校はサービス機関を超えて共同体メンバー(国民・住民)を再生産する機関なのか。だとすれば、現在のように学校運営を教師と保護者にだけ任すのではなく、納税者全員が関わる仕組みを構築するべきだろう(文科省は、ある程度こちらの方向で動いている)。

 今回の事件は、学校の位置づけを曖昧なままにし、煩わしい事を避け、さりとて合理的に考える事もせず学校問題に対処してきた全ての関係者に対し、猛省を促しているように感じてならない。

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