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トットちゃんと森友学園

 南北戦争によって米国の黒人奴隷が解放された事は誰でも知っているが、その後、奴隷身分に戻りたいと願い出た黒人がいた事実は歴史の闇に葬られている。エジプトで迫害されていたユダヤ人がモーセに導かれエジプトから脱出した旧約聖書の挿話は有名だが、エジプトを出たのち奴隷的な扱いでもエジプトにいた方が良かったと漏らすユダヤ人がいた話はあまり知られていない。

 私たちは、「すべての人間には人権が保障され、それは喜ばしいことだ」という思想を信じて生きているが、その癖、自分達の人権を自分で侵す危険性に気付かない。自分が正しいと信じる教育を行える権利、それは紛れもなくひとつの人権である。左派系の評論家たちが、日本を卑しめる時によく引用する「国際人権規約A規約」13条は、教育に対する一般的な考え方を定め、最後の第4項で、最低限度の基準に適合する事を条件としながらも「この条のいかなる規定も、個人及び団体が教育機関を設置し及び管理する自由を妨げるものと解してはならない。」と定める。

 ところが、我が国の教育基本法では個人が小学校や中学校を建てて学校を創ることができない(幼稚園は可能)。日教組の影響が残る公立学校には行かせたくない、さりとて高い授業料を払って私立学校に行かせる事も困難だ。そういう保護者は本来ならば個人で教育しても良いし、複数の保護者達が集まって自分達で学校を創っても良いのである。あるいは保護者ニーズを見越し、既存の私立学校と教育方針の異なる格安の私立学校を個人で創っても良いだろう。それらの自由を、国際人権規約は「人権」と捉えられている。

 実際、アメリカではチャータースクールという制度を利用して様々な規模の私設学校が作られているし、ドイツではシュタイナーというオカルト思想に基づく学校まで認められている(かつて日本の幼児教育世界でオカルト性を隠蔽して紹介されていたので、この名を聞いたことのある人も少なくないだろう)。イギリスに至っては、そもそも学校に通わせる義務がない。

 日本だって戦前は今よりもはるかに自由に学校が作れた。黒柳徹子氏の書いた『窓際のトットちゃん』を読んだ方は思い出してほしい。教室はスクラップになった路面電車だ。カリキュラムも授業スタイルも運動会も公立学校とは全く異なる事があの本から読み取れるはずだ。トットちゃんの学校の設立主体が個人か法人かは知らないが、戦前の人は今よりもはるかに自由に学校を創り運営できたのである。ところが、現代日本では個人が学校を設立できないだけでなく、学校を設立するとなると、教室の大きさから運動場の広さ、教室の天井の高さまで規則に従わなくてはならない。

 私は、森友学園問題において最重要論点は、教育勅語を読ませるのが正しいかでも、政治家の関与の有無でも、許認可を得るに当たり複数の契約書が存在したかでもないと考えている。私学教育という分野において、私たち日本人は戦前よりもはるか不自由な状態に置かれているという現実であり、それを認識さえしていない悲劇である。自分が信じる思想と合わない点を理由に「あんな学校の設立を認めるな」と叫んだ人たちは、自分達の人権も同時に放棄しようとしている危険性に気づいて欲しい。その姿は、奴隷に戻して欲しいと願った黒人やエジプトに帰りたいとこぼしたユダヤ人と相似をなしている。

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