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寺子屋が偏知に楔

激動の時代の学び

日本BE研究所所長 行徳 哲男氏に聞く

 日本の戦後教育は「知育偏重」だとよく言われてきた。それが教育の質低下につながっているとの指摘もある。コロナ禍におけるリモート授業はその傾向に拍車を掛けるのではないかとの危惧も出ている。では、どうすればいいのか。数多くの私塾や経営者らを集めた講習会で「寺子屋こそがこれからの日本を救う」と説く行徳哲男・日本BE研究所所長にインタビューした。
(聞き手・森田清策)

万変の時代、喜怒哀楽が学の要
感性のダイナミズム欠く現代人

なぜ今、寺子屋なのか。

日本BE研究所所長 行徳 哲男氏

 ぎょうとく・てつお 昭和8年、福岡県生まれ。大手財閥系企業に入社。労働運動の激しい時代に衝撃的な労使紛争を体験し、「人間とは何か」の求道に開眼。米国の行動科学と禅とを融合し、感性のダイナミズムを取り戻す「BE研究所」を設立する。著書・共著に「いま、感性は力」「いまこそ、感性は力」ほか多数。

 終戦秘話を一つ紹介したい。連合国軍最高司令官マッカーサーが当時の首相吉田茂を呼んで、こんなことを言った。

 米国は、日本といずれ戦争になることが分かっていたので、日本について徹底的に学んだ。その中で、一番衝撃的だったのは日露戦争。当時、アジアの小国がなぜ世界最強のバルチック艦隊を破り、203高地でロシア軍に勝てたのか。その前の日清戦争も含めて日本軍の強さに驚かされた。

 だが、同じ日本軍でありながら、太平洋戦争で見たのは戦略的な幼稚さだった。日露戦争における日本軍の強さと太平洋戦争の脆弱(ぜいじゃく)さ。この差はいったい何かと聞いたら、吉田茂は答えられなかった。

 ここで、マッカーサーは哲学者の和辻哲郎博士を訪ねた。そこで、和辻博士は即座に答えた。「それは塾式教育・寺子屋式教育と学出の差だ」と。

 私はこの歴史秘話を聞いて衝撃を受けた。陸軍士官学校や東大卒などは超エリートだ。その彼らたちが指揮した太平洋戦争の司令部のお粗末といったら失礼になるが、その差は受けた教育からきているのだという。

 要するに、本当の学びとは何かですよ。大学のように、何百人もの学生を前にマイクを使って教えるのは、本当の学びではないような気がする。

塾・寺子屋と言えば、吉田松陰の「松下村塾」(現在の山口県萩市)や緒方洪庵の「適塾」(大阪市)を思い浮かべる。

 適塾や松下村塾のようなしもた屋から、なぜ多くの傑物が生まれたのか。しかも、山口県は総理大臣を8人も輩出している。それも松下村塾があった影響だろう。

 世界最高の教育者はスイスのペスタロッチだとよく言われるが、私は、最高の教育者は吉田松陰、最高の教場は松下村塾だと思う。松下村塾や適塾のほか、儒学者・廣瀬淡窓が江戸後期に開いた咸宜園(大分県日田市)など、日本の至る所に塾や寺子屋、藩校があった。

 その寺子屋が日本の驚異的な近代化成功につながった。それは、瓦版を見ればよく分かる。江戸の街に、瓦版が配られたが、それは多くの人が字を読めたということ。つまり、識字率が高かった。あの当時、世界の文盲率が98%という中で、ほとんどの人が字が読めたのは、身分の隔てなく誰もが寺子屋にいくことができたから。

寺子屋と大学の授業で、何が違う?

 今の大学の教育は、知識や技術に偏っている。つまり偏知の教育です。

 中国の「史記」に「桃李不言下自成蹊」(桃李もの言わざれども下自ずから蹊を成す)という言葉がある。桃や李は、ものを言わないが、花の季節になると、その木の下の藪(やぶ)や荒れ地も人に踏まれて、自然に小道ができる。

 つまり、人に慕われる人間になれということ。寺子屋・塾で学ぶのは、人に慕われる人間になれ、知に偏るのではないぞ、ということです。今の大学教育は偏知ですね。だから、博学者はつくったかもしれないが、もの知りはいっぱいいる。肝心要のことが見えなくなっている。ゲーテも言った。「頭がすべてだと考えている人間の哀れさよ」と。

 人間である以上は、人間を学ぶこと。それが人間の本質でもある。読み書き算盤(そろばん)、暗記術が学びではない。吉田松陰が言ったように、「学びとは人たるの所以学ぶなり」ですよ。人物を学ぶ、それ以上の学びはない。

寺子屋教育の本質は。

 人物ですね。寺子屋や塾は、人物論から入っていっている。そこに教育の本当の強さ、「活学」がある。

 「徳」となると、堅くなる。私は徳という字はなかなか馴染(なじ)めなかった。徳は、何かというと、謹厳実直、品行方正、清廉潔白、人格高邁(こうまい)が定義だと思いがちですが、陽明学者の安岡正篤先生は、それは徳の定義の一部ではあるかもしれないが、徳の基本は「天心溌溂」だと言った。つまり明るさだと。

 では、教育とは何か、学びとは何か。これを教えたのは王陽明ですよ。王陽明は「心学」、つまり喜怒哀楽の哲学を説いて世界史に残した。私も陽明学をやっているが、今の世相に見事な切り口を付けるのは、王陽明の言葉です。

 つまり「天下のこと万変といえども、吾がこれに応じて生き残れる所以は喜怒哀楽の四者を出でず。これすべての学の要にして政もまた須くそのうちにあり」です。

 今まさに、コロナで激動激変で万(よろず)の変化です。万変の時代に応じて生きていくには、喜怒哀楽が学の要にならなければならない。喜怒哀楽の上に本物の学びがある。つまり感性です。喜怒哀楽のない政治はまやかし。言葉に魂が込められておらず、本当のことを言っていないから、みんな、見せかけ。政治ごっこをやっているだけ。そういうものに楔(くさび)を打ち込むために、寺子屋や私塾をつくる。

 今の学校教育は「べき」「べし」で、無碍自在がない。喜怒哀楽と感性のダイナミズムが今のわれわれには欠けている。感性を磨くのに一番適当なのは寺子屋、そして私塾ですよ。

現在の複雑な社会で生きていくためには、融通無碍の心が肝要ということですね。

 そうだ。縄文時代に戻ったらいい。法律が増えれば増えるほど民族は弱くなる。フランス人経済学者ダニエル・コーエンは進歩に疲れ果てたと言ったが、進歩は終焉(しゅうえん)しなきゃいけない。

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