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公民教科書読み比べ(6):日本に人権思想はなかったのか?

1.人権「思想」と現実とのギャップ

 前回の読み比べでは、東京書籍(東書)版がフランス革命を称揚している事に対して、200万人もの犠牲者を出したこの革命は、むしろ「人権弾圧の歴史」として学ぶべき、と批判した。東書はこの後に「人権思想の発展と広がり」でワイマール憲法を「『人間に値する生存』の保障などの社会権を取り入れた最初の憲法として有名です」などと評価している。

 ワイマール憲法を持ち出すなら、そのもとでなぜナチスが誕生し、一説には600万人と言われるユダヤ人が虐殺されたのか、の説明も欲しい処だ。さらに「人権思想の発展と広がり」と言うなら、共産主義で世界1億人もの犠牲者が出たとされる史実に関して、言及すべきだろう。

 この共産主義の流れが、現在もなお北朝鮮や中国でのチベット、ウイグル侵略など、世界各地での人権問題につながっている事を考えれば、人権の「思想」そのものは「発展と広がり」を見せているかもしれないが、現実社会の人権弾圧とのギャップは広がる一方で、それに目を背けては、そもそも人権問題を学習したことにはならないはずである。

 確かに人権思想は欧州で発達したが、その美しき理想のみを見て、現実とのギャップは無視する、という姿勢は、明治初期の盲目的西洋崇拝、あるいは戦前戦後の共産主義礼賛と同じ、後進国的拝外姿勢であり、21世紀のグローバル社会を生きる国際派日本人にとっては有害無用なものである。

2.「日本の人権思想の芽生え」?

 東書はフランス革命とワイマール憲法という美しき仮構を説いた後、それに比べる形で、「日本の人権思想の芽生え」と題して、次のように述べる。
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 日本では明治時代に,ヨーロッパやアメリカから人権の思想が伝えられました。しかし、1889(明治22)年に発布された大日本帝国憲法では,国民は主権者である天皇からあたえられる「臣民ノ権利」を持つと定められ,その権利は法律によって制限されるもので実際に,政府を批判する政治活動がしばしば抑圧されました。
人権はだれもが生まれながらに持っており,法律によっても制限されないという真の人権思想の確立は,日本国憲法の制定まで待たなければなりませんでした。[1, p37]
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 育鵬社版(育鵬)で、これに相当する「日本における人権」の記述は以下である。
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 日本でも,大日本帝国憲法を制定する際,古くから大御宝と称された民を大切にする伝統と,新しく西洋からもたらされた権利思想を調和させ,憲法に取り入れる努力がなされました。大日本帝国憲法では,国民には法律の範囲内において権利と自由が保障され,その制限には議会の制定する法律を必要とするとされました(法律の留保)

 日本国憲法では,西洋の人権思想に基づきながら基本的人権を,「侵すことのできない永久の権利として信託されたもの」(97条)とし,多くの権利と自由を国民に保障しています。[2, p53]
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 両書の記述は大きく違っているが、どちらが実態に近いのか?

3.「古くから大御宝と称された民を大切にする伝統」

 育鵬の言う「古くから大御宝と称された民を大切にする伝統」については、拙著『日本人として知っておきたい 皇室の祈り』で、そもそもわが国は初代・神武天皇以来、民を大御宝(おおみたから)と呼び、その安寧を祈ることが歴代天皇の務めとされてきた事を述べた。[a]

「人権」という言葉こそ使っていないが、民を大御宝とする伝統は、中国の皇帝や西洋の王が土地と人民を私有財産と考える伝統に比べれば、はるかに先進的な「人権思想」である。[b]

 たとえば、米沢藩を治めた上杉家は、藩内の経済開発に努め、天明の大飢饉で平年の二割ほどに米作が落ち込んでも、備蓄米を活用して死者を一人も出さず、他藩からの難民も救った。幕府からも「美政である」と三度も表彰を受けている。

 その上杉家に伝えられた家訓では、「国家人民の為に立たる君にて、君の為に立たる国家人民にはこれなく候」とある[c]。皇室、幕府、藩のそれぞれが、人民の幸せを護ることを使命と考えていたのが、日本の政治伝統であった。わが国の「人権」の歴史を説くなら、この「民を大切にする伝統」をおさえておかなければならない。

 西洋での「人権思想」のみを説く東書は、フランス革命での悲惨な実態を省みなかったが、わが国の「大御宝思想」とその実態にも盲目のようだ。

4.「法は民族精神・国民精神の発露」

 育鵬は「古くから大御宝と称された民を大切にする伝統と,新しく西洋からもたらされた権利思想を調和させ,憲法に取り入れる努力がなされました」と説くが、まさしくこの点こそ、大日本帝国憲法(以下「帝国憲法」)の制定にあたった伊藤博文や井上毅(こわし)が最も苦心した点であった。

 伊藤は19世紀ヨーロッパにおける政治・社会学の権威、ウィーン大学のローレンツ・フォン・シュタイン教授から、「法は民族精神・国民精神の発露」であり、国民の歴史の中から発達していくものとする、当時ヨーロッパを席巻していた歴史法学の説明を受けた。

 それまでに作られていた憲法草案は、伊藤によれば「各国の憲法を取り集め、焼き直し」、「欧州の制度を模擬するに熱中し」たものに過ぎなかった。それでは国民精神に浸透し、国民生活を導くものにはなりえない。実際に1870年代後半にトルコが立憲政治を始めたが、一年足らずで憲法停止・議会解散に追い込まれていた。

 そこで、井上毅が日本の歴史を調べ、古事記の中に「領(うしは)く」と「知らす」という言葉が厳密に使い分けられていることを発見した。前者は王や皇帝が人民を私有財産のごとく扱うことであり、後者は天皇が大御宝の安寧を神に祈る事である。

 この歴史伝統を踏まえて、帝国憲法第一条の草案では「日本帝国は万世一系の天皇の知らす所なり」とした。ただ、この「知らす」は近代西洋の用語にはないので「統治す」に改められた。

 こうして制定された帝国憲法は、欧米の識者からも絶賛された。アメリカの連邦最高裁判官オリヴァー・ウェンデル・ホームズは、いくつかの具体的な点を評価しながら、最も感心した点として、こう述べている。
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 この憲法につき、予が最も喜ぶ所のものは、日本古来の根本、古来の歴史・制度・習慣に基づき、しかしてこれを修飾するに欧米の憲法学の論理を適用せられたるにあり。[d]
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5.天皇は主権者?

 東書はこの辺りの経緯は一切無視して、「国民は主権者である天皇からあたえられる『臣民ノ権利』を持つと定められ」と、あたかも天皇がすべての権限を持つ独裁者のように記述している。

 この点を育鵬は憲法自体を論じた第2章で、次のように説明している。
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 天皇は国の元首であり,国の統治権を総撹する(すべてまとめてもつ)のであるが,法の規定に従って統治権を行使するものと定められました。

 具体的には,法律の制定は国民の意思が反映された議会の協賛(承認)によること,行政は国務大臣の輔弼(助言)によること,司法は裁判所が行うこととされました。[2, p48]
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 要は天皇は議会の協賛なくして勝手に法を作ることはできず、国務大臣の補弼がなければ行政もできず、司法は裁判所が行うということで、これはまさしく立憲君主制そのものである。

 これが建前だけではなかった事は、たとえば明治天皇は日清戦争に賛成されず、開戦時には「閣臣らの戦争にして、朕の戦争にあらず」と言われた[d]。開戦という国家最重要事ですら、内閣独自の意思決定によって行われたのである。帝国憲法で天皇が「主権者」で、さも絶対的な専制権力を持っていたかのような記述は誤りであることは、この事実だけで明らかであろう。

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 ただ、育鵬の「天皇は国の元首であり,国の統治権を総撹する」という記述も、もう少しかみ砕いた説明が欲しい処だ。最も簡明な説明は、井上毅など起草者の考えに基づいて、天皇は「大御宝の安寧を神に祈る」存在とし、議会、行政、司法はその祈りを実現するための活動を行う、と考える事だろう。もともと西洋の歴史には無い存在なので、元首、統治権、主権などの西洋的概念では説明しきれない日本の政治伝統の根幹である。

6.歴史と現実を無視した「人権思想」原理主義

 国民の権利に関する記述も微妙に異なる。東書は「国民は主権者である天皇からあたえられる『臣民ノ権利』を持つと定められ,その権利は法律によって制限される」とし、育鵬は「国民には法律の範囲内において権利と自由が保障され,その制限には議会の制定する法律を必要とするとされました」とする。

「法律の範囲内において権利と自由を持つ」という点では同じであるが、東書が批判したいのは、それが「天皇から与えられる『臣民ノ権利』」だという点と、国民の「権利が法律によって制限される」という点にあるようだ。

 そこから「人権はだれもが生まれながらに持っており,法律によっても制限されないという真の人権思想の確立は,日本国憲法の制定まで待たなければなりませんでした」と続く。

 東書の著者の脳中にはフランス革命で生まれた人権思想がワイマール憲法などで発展し、それが日本ではようやく戦後確立された、という仮構がある。それがいかに現実離れした空想的観念であるかは、フランス革命の犠牲者数2百万人という数字だけを見ても明らかである。

 そもそも「法律によっても制限されない人権」とは一体何なのか。例えば日本国憲法第13條では「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り・・・」と、当然ながら留保がつく。そして「公共の福祉」のために様々な法律が作られ、国民の権利が制限される。この点は日本国憲法でも帝国憲法でも同じである。

「公共の福祉」とは他者の人権である。多くの人々が住む共同社会である以上、自他の人権のぶつかり合いは当然生ずる。その兼ね合いをどうするか、というのが、公民として学ばなければならない課題だろう。

「人権思想の発展と広がり」を論ずるのに、その「人権思想」に反して数百万人、数千万人単位の犠牲があったという歴史事実も、また自他の「人権」のぶつかり合いという現実的問題も無視する、いかにも「原理主義的」な立場を東書はとっている。

7.五箇条の御誓文と日本の民主主義

 歴史も現実も無視した「人権思想」原理主義の対極にあるのが、「法は国民の歴史の中から発達していくもの」というヨーロッパの歴史法学の考え方だろう。この考え方は、特に日本のように西洋とは別の歴史を歩んできた国にとって重要である。

 育鵬では、日本国憲法を論ずる第2章で、「大日本帝国憲法の制定」の項を設け、五箇条のご誓文から始めている。
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 明治維新を迎えた日本では、五箇条のご誓文が示され、天皇自らこれを実践することを明らかにしました。五箇条の御誓文はその後もつねに参照され,国政の指針となりました。[2, p20]
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「御誓文」と「御」をつけているのは、天皇が神に誓った文章だからである。育鵬では「広ク会議ヲ興シ 万機公論二決スヘシ」などの原文とともに「広く人材を求めて会議を開き議論を行い,大切なことはすべて公正な意見によって決めましょう」などと、現代語訳をつけている。

 さらにイラストの女生徒が「五箇条の御誓文の理念は日本国憲法にも生きているのかしら」と質問し、その下に次のコラムを置いている。
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「新日本建設二関スル詔書」 1946(昭和21)年元旦,昭和天皇は,「五箇条の御誓文」をよりどころにして,戦後日本の民主主義を発展させていこうと、国民に発せられました。
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8.「法は国民の歴史の中から発達していくもの」

 人権や民主主義の概念は、西洋の王権と民権のせめぎ合いの中から生まれた。中国や朝鮮では皇帝や王による専制政治が近代まで続き、人権も民主主義もいまだ定着していない。その結果、中国ではまともな民主選挙は行われたことがなく、韓国では歴代大統領はすべて悲惨な末路を辿り、北朝鮮にいたっては独裁者三代の世襲が続くという有様だ。

 それに対して、わが国では神代から大御宝の伝統があり、近世にいたっても「国家人民の為に立たる君」という理想が謳われ、それが五箇条の御誓文から大日本帝国憲法へと発展していった。この歴史があるからこそ、わが国の民主主義は段違いに定着・成熟しているのである。やはり「法は国民の歴史の中から発達していくもの」なのだ。

「人権思想原理主義」ではなく、わが国の先人が人権実現に向けて苦心してきた歴史を辿ってこそ、生徒たちが今後の人権や憲法のあり方を現実的に考えていく力を学び取ることができるのである。
(文責 伊勢雅臣)


「国際派日本人養成講座」ブログより転載
http://blog.jog-net.jp/

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