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軍配は龍馬ではなく小五郎? 幕末土佐藩邸の剣術大会

特報’17

剣客根井家の史料に勝敗記載

 司馬遼太郎の「竜馬がゆく」の名場面の一つに、幕末の志士・坂本龍馬と桂小五郎(後の木戸孝允)の剣術試合がある。1本目に龍馬の「面」、2本目は小五郎による「胴」で、勝負は1対1の接戦。3本目に小五郎の一瞬の隙を狙った「壮大な鉄砲突き」が決まり、軍配は龍馬に上がった。ところが、小五郎が龍馬に3対2で勝ったことを示すとされる史料が、群馬県前橋市の群馬県立文書館に保管されていたことがこのほど分かり、話題を呼んでいる。
(社会部・石井孝秀)

群馬県立文書館「偽物でない感触ある」

 この史料は1994年に同館へ寄託された1000点を超える「根井幸江家文書」の中の一つで、「安政四三月朔日 松平土佐守様御上屋鋪ニ而御覧」と始まり、江戸の土佐藩邸で行われた剣術大会の勝敗結果とみられる記録が残されている。

桂小五郎

桂小五郎(後の木戸孝允)

 22の組み合わせの最初の試合で、龍馬と小五郎の名前がいきなり登場。その両者の名前の上には小さな黒丸が記されており、これを勝ち数とするなら2対3で龍馬が「敗北」。「竜馬がゆく」の場面と同様接戦の後に、小五郎が勝利したことになる。

 試合には小五郎のみ2度出場しており、延べ44人が参加。神道無念流の斎藤弥九郎(新太郎)と北辰一刀流の海保帆平との対決や土佐藩剣術指南を務めた石山孫六の試合など、当時の実力者として名高い剣客たちが数多く参戦しているのも大きな特徴だ。

 ただし、参加者たちの流派や出身地について記述はあるものの、試合形式や決まり手などは一切記されていない。小五郎の2試合目は、4対6で小五郎が「敗北」した。定められた時間内での決まり手の数とも考えられているが、詳しいことはまだ明らかではない。

坂本龍馬

坂本龍馬

 また、史料の記録と伝承や小説で知られてきた内容とは若干の違いがある。

 これまでは龍馬と小五郎が対決したのは土佐藩邸ではなく鏡新明智流の桃井春蔵道場とされてきた。斎藤と海保の対決が土佐藩邸で行われたことは伝承通りだが、試合の結果は逆。史料では海保が勝っているが、伝承では斎藤の勝利となっている。

 これらの食い違いが、今後の研究でどのように解明されていくのかは興味深い。

 今まで龍馬と小五郎の対決の史料として知られていたのは、土佐勤王党盟主の武市半平太の手紙。武市は知人に宛てた手紙の中で試合模様を詳細に記録している。

 しかし、その時期に江戸にいないはずの人物が出てくるといった矛盾などから手紙は偽物と判断され、剣術大会の存在も創作とされてきた。そのため、今回の史料が明らかになったことで、同館には全国から問い合わせが相次いでいるという。

勝ち星

根井家に残されていた史料。出身や師範の名前の横に、「勝ち星」と思われる小さな黒丸が記されている(群馬県前橋市の群馬県立文書館所蔵、石井孝秀撮影)

 史料の持ち主の根井家は江戸時代に上州・中箱田村(現群馬県渋川市北橘町箱田)で名主を務めていた。その地域では剣術が盛んで、幕末から明治にかけての当主・根井行雄も法神流という流派で免許皆伝を授けられるほどの腕前だった。

 どうやら行雄自身はこの試合の場にはいなかったようで、史料の終わりに「私右之節他行仕候而 残念千萬与存候」とあり、人から伝え聞いた内容を書き残した可能性が高いという。

 同館古文書係の関口荘右指導主事は「調査してみて、偽物ではないのではという感触はある。根井家は法神流の免許皆伝の家であり、当時の人物が何らかの事情で江戸に出て試合結果を書き写したり、もしくは上州で伝え聞いたということはあるのではないか」と語った。

 同館では年内にも高知県高知市の坂本龍馬記念館に江戸の土佐藩邸で行われた剣術試合の記録に関する最新の研究成果について問い合わせる予定だ。また、参加した剣士たちの一人一人についても調査を進めていく。

 これについて坂本龍馬記念館は「今まで剣術大会の記録は見つかっていなかったが、今回他藩から史料が出てきたということで、今後の研究に期待したい」と回答した。

 江戸時代の剣術試合について詳しい、日本武道学会中四国支部会の森本邦生理事によると、当時の試合は審判を置かずに、試合当事者や見学者の主観によって勝敗が決すことが多かった。そのため、一つの試合を記録した史料が複数ある場合、記録者によって評価に違いが見られることもあるという。

 森本理事は「当時は試合時間も定まっておらず、10本ほどを目安にして互いに打ち込んでいた。相打ちを数に入れなかったとすれば、丸が同数に近い試合ほど接戦だった可能性がある」と語った。

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