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「(大衆は)前代の英雄や偉人の生い立ちに…

 「(大衆は)前代の英雄や偉人の生い立ちに関しては、いかなる奇瑞(きずい)でも承認しておりながら、事一たび各自の家の生活に交渉するときは、寸毫も異常を容赦することができなかった」と柳田国男は『山の人生』(大正15年)に書き留めている。

 遠い昔の人物については、どれほど信じ難い話であっても大衆は受け入れる。だが、いざ自分の生活に関わる場合は、異常なものはいささかも受け入れることがないという意味だ。江戸時代の大衆のことを柳田は言っているのだが、同じことは今の日本人にも当てはまる。

 面白い話、不思議な話を大衆は好む。だがそれは、自身の利害とは無関係な時に限るのであり、少しでも自身の損得に関わる場合は、異常なものや奇妙なものは斥(しりぞ)けられる。

 江戸時代の大衆も、『山の人生』が書かれた90年以上前の大衆も、21世紀のわれわれも、いずれも明確な基準を持っていて、受け入れるものと排斥するものは厳密に区別される。

 大衆の機微というべきか、シビアさというべきか、そんなものが自(おの)ずから備わっていることの不思議さに驚いている柳田の姿が読み取れる。

 そういう基準を持っていたからこそ大衆は生き延びてきたのだろうし、半面、そうした基準を軽く見た結果、滅んでしまった人々もいたのだろう。当今の「大衆迎合主義」の中、大衆批判は困難だが、当時50歳を超えたばかりの柳田が大衆の不思議さを見抜いていたことは興味深い。

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