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世界で闘えない日本の科学者 惑星科学会議での日米比較

廣井孝弘
 昨日まで1週間にわたり、米国テキサス州ヒューストンにおいて、第47回の月惑星科学会議(Lunar and Planetary Science Conference)が行われた。このLPSCは、1969年にNASAがアポロ11号で月試料を持ち帰り、世界中の名だたる科学者たちに分配し、その解析結果を翌年1970年に持ち寄って発表しあった時の第1回月科学会議が、その後、毎年行われるようになり、惑星を加える名称変更を経て、47回目を迎えたものである。

 私が最初に参加したのは、アメリカに渡った翌年の1991年で、それ以降、次女がその週に生まれた1998年以外は毎年参加しているので、今年で25回目になる。四半世紀となり、会場に行くとかなり知り合いが多くなってきて、同窓会の雰囲気をも醸し出している。昔はNASAジョンソン宇宙センター(JSC)内のGilruthという体育館で行われていたのだが、2001年の9.11テロによって敷地外のホテルに会場が移ってしまった。

 1991年当時は日本人の参加者は本当に少なく、航空運賃も高い時代だったため、日本から参加するのは国際的に活躍している名だたる研究者たちだけだったのかもしれない。しかし、25年経った今は全く違う、世界トップの科学者だけというよりも、半分日本に帰ったかと思うくらい日本人が多く、ヨーロッパは自分たちでEPSCという学会を始めたので、来ない研究者も多い。

 LPSCの優れたところは多くある。1991年当時、私は、ブラウン大学で1年間お世話になっていたCarle Pieters助教授のおかげで、最初の参加時に、固体分光モデルで有名なBruce Hapke博士と、その学生だったDeborah Domingueさんに私のモデルを紹介する小会合を持たせてもらった。基本的には、Hapke博士のモデルと似たものであるという評価であったが、鉱物粒子の形が異なることによって光散乱の断面積が変わり、それによって、その鉱物の混合による全体の反射スペクトルに与える影響も変わってくるという定式化は高く評価されたと思う。そして、口頭発表もうまくこなせたと自分では思っている。

 Hapke博士とは、その後も学会や、JSCで行われた宇宙風化研修会で様々教えと刺激を受けることになる。Deborahはつかず離れずといった感じで、たまにブラウン大学のNASA反射率実験室(RELAB)のデータを提供したりする程度の付き合いだったが、今回、はやぶさ2ミッションにNASA側から参加する9グループの共同研究者の1人に選ばれた。また、1991年最初に参加したLPSCの翌年には、JSCにNational Research Council(NRC)の研究員として行くことができたのも、LPSCでの発表による露出効果もあったかもしれないと思っている。

 このように、現在のようにインターネットが発達していない当時は、様々な電子メールシステムはあったものの、やはり研究者同士が直接会って話すというのは非常に重要なことであった。だが、学生や若手研究者にとって、多額の航空運賃と言語の壁を越え、また科学のレベルの差を克服して渡米し、LPSCに参加するのは、きっと大きな挑戦であったに違いない。

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今回のLPSCでの著者と、イトカワ試料のシンポジウムのチラシ(右下はめ込み)。

 しかし今日、それが簡単すぎるほどになっている。航空運賃は安くなり、英語のできる学生もやや多くなり、大学や国から旅費を出してくれることも多くなり、研究室で団体で参加してくる場合もある。私の時代に比べれば、天国の様である。しかし、そこには問題もあり、また日米の差をより強烈に感じさせることが多くなった。

 まず、日本人同士で固まってしまい、せっかくの世界の研究者たちと交わる機会を逸している場合が多い。また、本来は口頭発表を申し込んで、競争審査でそれに落ちたらポスターに回るのがやり方なのに、始めからポスターを希望する学生が多いのだ。それは英語力に自信がなかったり、指導教官の方針や指導の足りなさかもしれないが、もし、よい研究をしてるのなら、たとえ指導教官に代理発表してもらっても、会場で何百人かの聴衆を15分間独占して発表できる効果は絶大である。ひょっとしたら、指導教官でさえ、そのような場で英語で発表できない研究者である可能性もあるが……。

 あと、日本の学生や若き研究者には、もはやハングリー精神が感じられない。私が来たときは、この分野で成功して研究員の資格を取らなければ来年さえ行き場がなく、科学者を辞めるしかないという状況で、今でも何年か毎の研究費やRELABの共同利用実験室としてのNASAの支援の審査に通らなければ、早晩給料もなくなり、去るしかない。米国の大学院生や研究員、そして恒久職でない教官などはNASA研究費から給料を出しているので、毎回、夕方に行われるNASA Nightでの説明会や随時応募締め切りが来る様々な研究費プログラム、そしてLPSCで最新の研究成果を仕入れ、研究者とコネを結ぶ機会を掴むことは非常に重要である。

 一方、日本からの参加者たちはどうであろうか。もちろんNASA研究費は申し込めないので関係ないが、やはり自分が世界トップレベルの研究者がいる米国に打って出て一旗揚げようとか、自分を売り込んで彼らに雇ってもらおうとか、最新の研究成果を吸収して今後の自分の研究に役立てようとか、少なくとも、外国人と交わって英語力を鍛えようとか考えているだろうか。口頭セッションで各発表の最後に5分くらい質問の時間があるが、質問してくる日本人は私を含めて、ほぼ両手で余る程度の少数である。

 固体惑星探査に関しては、のぞみの失敗以外は、はやぶさ・かぐや・はやぶさ2・あかつきと何とか成功してきているように見えるが、そこには大きな盲点がある。それらミッションの予算は、NASAの一番安いDiscoveryミッションの予算の半分程度であり、科学成果を出すべき研究チームや獲得したデータや試料を解析する人たちに出す給料は含まれておらず、旅費でさえも足りないこともしばしば、ということである。それは、米国の常識で言えば、まさにCrazyである。この分野では、まだ70年以上前の大東亜戦争における零戦とB29の対決の世界である。

 小説および映画「永遠の零」で描かれている世界が事実であれば、日本は戦いの初期においてはその奇抜な戦闘機とそのために訓練された生え抜きパイロットのおかげで絶対的な優勢を得たが、彼らを酷使し、敵を知らず、将来に投資しないことで、結局、米国の技術と人材の成長によって圧倒され、最後には、とうとう若者の命を多く散らす結果となった。今は戦争ではないが、惑星探査は競争である。最初に戦略的に盲点を突いて勝ったからと言って、技術革新や人材育成に資金や人的資源を投入しなければ、いずれやられていく。基本的に日米では体力の差があるのである。若い科学者たちが職を失ってほかの業種に流れれば、それは将来の科学者を殺したようなものである。

 NASAのNew Horizonsは10年もかけて冥王星に行って大きな発見をした。今回、そのチームのトップであるAlan Stern氏の講演があったが、講演会で冥王星やその衛星の姿を見せると、人々が感動して、「自分の人生でこれが最高の出来事だ」と涙を流す人もいるそうである。それを聞いて私は、はやぶさ現象と同じだと思った。日本全国の多くの人々が、はやぶさの姿に感動し、涙を流し、人生に新たな意味を感じたと思う。しかし、NASAやESAは、水星・金星・火星・木星の衛星などの探査でも感動的かつ科学的成果を出し続けている。日本も今は、2010年にはやぶさが世界で初めて持ち帰って来た小惑星イトカワの試料を分配して、毎年、相模原にある宇宙研でシンポジウムを行って、日本版のLPSCを始めたのだから、これを、はやぶさ2、そしてその先の惑星試料回収探査で続けていってほしい。

 私が前回も書いたように、惑星探査と科学は惑星だけでなく、地球と人類の起源と意義を探ることができるものである。私が体験したように、今後ともLPSCでハングリー精神を持つ日本の若者たちが人生を転換する経験ができ、将来日本中に感動をもたらす偉業をなしてもらいたいものである。

(2016年3月26日記)

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