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「ニヒリズム」と中国の「低欲望主義」

 「低欲望主義」という言葉に出会って新鮮な驚きを受けた。世界日報の中国問題専門記者・深川耕治氏によると「低欲望主義」とは、ゆったり横たわることで、精神的ゆとりを意味する「躺平(タンピン)主義」の日本語訳という。「食事は日2回でいいし、働くのは年に1~2カ月でいい。寝そべり(低欲望)は賢者の行動だ」との主張に共鳴する若者が中国で続出し、住宅費の高騰で貧富の格差に苦しむ1990年代以降生まれを中心にSNS上で共感を呼び、『躺平族』との新語も生まれた」(世界日報7月16日)。

ニヒリズムの台頭を予言したニーチェ(ウィキぺディアから)

ニヒリズムの台頭を予言したニーチェ(ウィキぺディアから)

 深川記者によると、「日本の高度経済成長と同じように、猛烈に働き、地位や財を得て裕福になることが庶民の目標となった。しかし、過当な受験競争、就職難、低賃金で『996』(朝9時から夜9時まで、週6日勤務)と呼ばれる過酷な勤務などが社会問題化。両親が望む出世や結婚に無関心な若者が増え、躺平が若者たちの心をとらえた」というのだ。

 「躺平主義」「低欲望主義」を聞いて、ローマ・カトリック教会の前教皇ベネディクト16世が2011年、「若者たちの間にニヒリズムが広がっている」と指摘していたことを思い出す。欧州社会では無神論と有神論の世界観の対立、不可知論の台頭の時代は過ぎ、全てに価値を見いだせないニヒリズムが若者たちを捉えていくという警鐘だ。簡単にいえば、価値喪失の社会が生まれてくるというのだ(「“ニヒリズム”の台頭」2011年11月9日参考)。

 人は価値ある目標、言動を追及する。そこに価値があると判断すれば、少々の困難も乗り越えていこうとする意欲、闘争心が湧いてくるものだ。逆に、価値がないと分かれば、それに挑戦する力が湧いてこない、無気力状態に陥る。同16世によると、「今後、如何なる言動、目標、思想にも価値を感じなくなった無気力の若者たちが生まれてくる」わけだ。

 ここまでくると欧州キリスト教社会に蔓延してきたニヒリズムは中国の若者たちを捉えてきた低欲望主義、躺平主義に酷似しているように見える。ただ、低欲望主義は欲望主義社会へのアンチテーゼといったニュアンスが強い。

 「寝そべり」自体、若者にとって物理的に快い状態とはいえない。長時間寝そべっていれば生理的にも苦痛となってくる。良い会社に就職でき、住宅があり、家庭を築くことが出来る社会ならば喜んで戻ってくるよ、といった暗黙のシグナルが発せられているからだ。ニヒリズムにはそれがない。低欲望社会も欲望社会もニヒリストにとって価値がないからだ。

  ニヒリズム(独語 Nihilismus)は「虚無主義」と日本語で訳される。既成の価値観を信頼できず、全てのことに価値を見出せなく、理想も人生の目的もない精神世界だろう。フリードリヒ・ニーチェ(1844~1900年)は「20世紀はニヒリズムが到来する」と予言した。

 「神は死んだ」と宣言したニーチェは科学時代の到来を予感する一方、「科学は人間に幸せをもたらさない」との思いが強かった。その結果、神を失った人間はどこに人生の指針を置いていいか分からなくなり、文字通り、「永劫回帰の世界」を放浪する存在になってしまったわけだ。学者教皇べネディクト16世は「現代の若者たちはこの“死に到る病”に冒されてきた」と指摘し、強い憂慮を吐露したのだ。

 ちなみに、欧州社会では実用的な不可知論(Agnosticism)と宗教への無関心が広がっている。不可知論とは、神の存在、霊界、死後の世界など形而上学的な問題について、人間は認識不可能である、という神学的、哲学的立場だ。神の存在を否定しないが、肯定もしない。不可知論者にはニヒリズムの匂いを感じることがある。「認識できない」という理由から神の存在を肯定も否定もしない一方、結局は何も信じることができず、その時の流れに従って生きていく世界は、ニーチェがいう“受動的ニヒリズム”の世界と似ている。

 ところで、生れた時からニヒリストという人間はいないだろう。両親の愛と希望を受けて生まれてくるが、成長していく段階で既成の価値感に失望し、自身の生命を燃やすことが出来る価値感を見出せなくなっていく。ニヒリストは時には英雄的な言動をするが、彼自身その言動に価値を見出していないから、他者から評価されたとしてもそこに永続的な喜びを感じることができない。その意味でニヒリズムはベネディクト16世が指摘していたように死に至る疫病だ。躺平主義には治療方法はあるが、ニヒリズムには解決策が見いだせないのだ。

 イェール大学の聖書学者、クリスティーネ・ヘイス教授は、「ユダヤ教では、いいことをすれば神の報酬を受け、そうではない場合、神から罰せられるといった信仰観が支配的だったが、ヨブ記は悪いことをしていない人間も試練を受けることがあることを記述することで、従来のユダヤ教の信仰観に大きな衝撃を与えた。ヨブは試練の中でも信仰を失わず、報われなくても『正しい事は正しい』という確信を放棄せず、ニヒリズムに陥ることはなかった」と説明している(「『ヨブ』はニヒリストにならなかった」2021年2月27日参考)。

 21世紀のニヒリズムは神への信仰を既に失ってしまっているから、ヨブのように「正しい事は正しい」と言い切る確信がもてないのだ。仏教のいう「諦観」の世界でニヒリズムを乗り越えることが出来るだろうか。

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