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「神の祝福」を失った教会の内紛

 ローマ・カトリック教会の総本山、バチカン法王庁教理省が15日、「同性婚には神の祝福を与えることを禁止する」という法令を発布したが、同性婚者ばかりか、カトリック教会内でも大きな波紋を呼び起こしている。その点についてこのコラム欄でも紹介済みだが、見逃していた点を見つけた。「神の祝福」とは何か、同性愛者が本当に教会の「神の祝福」を願っているのか、といった問題の出発点についてよく吟味していなかったことに気が付いたのだ。

フランシスコ教皇、昨年の復活祭は信者のいないサンピエトロ大聖堂で記念礼拝をした(2020年4月12日、バチカンニュースから)

フランシスコ教皇、昨年の復活祭は信者のいないサンピエトロ大聖堂で記念礼拝をした(2020年4月12日、バチカンニュースから)

 カトリック教義は同性婚を認めていない。その教会から「神の祝福」を願う同性愛者がいるとすれば、教会の教えへの無知か、それとも教会に喧嘩を売っていることになる。同性婚者が本当に「神の祝福」を願うのならば、同性婚を認知しているプロテスタント教会に所属し、そこで「神の祝福」を受けたほうが手っ取り早い。同性婚を認める教会を探せば、事は解決する。同性婚者が世界最大キリスト教会であるカトリック教会の「神の祝福」を社会的認知と考え、「神の祝福」を要求するのであれば、それは教会側の混乱を目論む政治的活動というべきだろう。

 多分、大多数の同性婚者はカトリック教会の「神の祝福」など願っていないはずだ。「神の祝福」を与えるか否かで喧々諤々の議論をしているのはカトリック教会内の聖職者だけだろう。バチカン教理省が公布した「同性婚者に神の祝福を与えない」という内容は聖職者への内部通達であって、同性婚者への最後通牒でもないからだ。

 問題の焦点が絞られてくる。聖職者の中で同性婚者に「神の祝福」を与えるべきだと主張し、教理省の公布を批判する場合、その動機が「イエスの福音を性的指向に関係なく伝達したい」という宣教魂から出たものなら評価すべきかもしれない。しかし、教会の教理が認知しない同性婚に対して「神の祝福」を与えるということは教理を修正しない限り難しいという認識が欠けているのではないか。同性婚に「神の祝福」を与えよと主張する聖職者は聖典としてきた聖書66巻を書き直すか、捨てる以外にないことを自覚しているだろうか。単に寛容な姿勢を見せて、信者受けを狙っているとすれば、大衆迎合政治家と同じだ。

 同性婚が願う「神の祝福」とは、教会側が同性婚者の婚姻を認知することを意味する。しかし、聖書を聖典とするカトリック教会では教義的にも認知出来ない問題だ。これは性差の差別といった問題ではない。カトリック教会の教えに基づくもので、教会側は本来、他の選択肢がないのだ。

 聖職者と一部の同性婚者が拘る「神の祝福」とは何だろうか。神はアダムとエバを創造した後、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」(「創世記」第1章)と祝福している。同性婚では生物学的に難しい「生めよ、ふえよ」といった内容だ。この点でも「神の祝福」は同性婚を前提としたものではなかったことが分かる。

 興味深い点は、旧約聖書に登場する人物は「神の祝福」を奪いあっている。イサクの妻リベカは、本来はエソウが得る神の祝福をヤコブに与えるためにヤコブを助けている。ぺレツとゼラの時は胎内の時から「神の祝福」を奪い合っている。そして旧約聖書の世界では、神の祝福を得るのは長男ではなく、次男だという点だ。人類の始祖アダムとエバの長男カインが次男のアベルを殺害して以来、そのルールが継続されていることに気が付く。

 「神の祝福」を与えるのは聖職者だが、誰を祝福し、誰を祝福しないかは本来、神の権限に属する。一方、同性婚者にも「神の祝福」を与えるべきだと考える聖職者は「性差に関係なく、平等に与えるべきだ」という民主主義社会のルールを重視する場合が多い。「寛容」はその表現だろう。すなわち、人権尊重がその動機にある。

 「カイザルのものはカイザルに返し、神のものは神に返せ」(「マタイによる福音書」第22章)という聖句を思い出す。「神の祝福」を神の権限から切り離し、この世のルールに従って取り扱おうとすることから混乱が生まれてくるわけだ。「わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ」(「ローマ人への手紙」第9章)という聖句に神の権能と特権が記述されている。

 同性婚者の責任ではない。聖職者の問題だ。深刻な点は、「神の祝福」を人権擁護の思想を振りかざして安売りする聖職者が少なくないことだ(「『同性婚への祝福禁止』に反旗続々」2021年3月25日参考)。

 蛇足だが、神が弟アベルの供え物を受け取り、自分の供え物は受け取られなかったことを知った兄カインは失望し、激怒した。怒りを抑えきれなかったカインは弟アベルを殺害する。人類最初の殺人は、神から認知されなかった、という怒りと恨みが犯行動機となって生じた。人類の歴史は、「神の祝福」を得た者とそれを受けられなかった者との間の、悲しいまでの争いの繰り返しだったといえるわけだ。

 最後に、そもそも聖職者の未成年者への性的虐待事件が多発し、財政不正問題が表面化するなど、信者たちの信頼を失ったローマ・カトリック教会に「神の祝福」を与える資格があるだろうか、という問題が残る。同性婚への神の祝福云々で議論する前に、教会が「神の祝福」を失ってしまったのではないか、という問題について、深刻に悩むべき時ではないか。

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