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日野皓正の体罰を巡る議論の迷走

 何が「間抜け」と言って、議論をしている本人が、自分が何について議論をしているのかを理解していないほど「間抜け」なものはない。その意味で、世田谷区教育委員会主催のコンサート時における日野皓正氏の体罰を巡る議論は、相変わらず「間抜け」な議論が大勢を占めていた。

 公教育において「体罰」問題が起きた際に、必ず独自の教育観や経験則から体罰を肯定する人間が登場し、それに「暴力は絶対ダメ」と応酬する人間が対峙する。かく言う私も、教育において体罰は時に肯定されると考えているのだが、本事件は、世田谷区教育委員会主催のコンサート会場で起きた体罰事件であり、公教育において体罰は法律で禁じられている事が前提となる。従って、議論の中身は「公教育において違法な体罰が許される場合があるか」「仮に許される場合があるとして、日野皓正氏の体罰はそれに該当するか」でなければならない。つまり、芸能人や評論家が、教育論や経験則だけで体罰の是非を論じるのは、まったく的外れということだ。

 議論すべき内容が、この2点と理解できると日野皓正氏の体罰は公教育としては許されないと瞬時に決まる。相手が中学生ともなると、緊急避難や正当防衛といった場面があるので、第1の論点「公教育において違法な体罰が許される場合があるか」について私は肯定するが、今回のビンタに、そのような緊急性はない。スティックを取り上げ、それでも手でドラムをたたいたのだから、椅子から引きずり降ろせば事足りたはずだ。従って、日野皓正氏の体罰が、学校教育として許される余地はない。

 では、何故、日野皓正氏の行為を肯定する議論が横行しているのか。
最も多いのは、私的な教育と公教育の違いを理解せず議論している人である。確かに、かの中学生が日野氏に私淑し、日野氏からの(体罰も含めた)教育を欲しているのであれば、その体罰が度を過ぎない限り肯定して良いだろう(リベラル・ファシストにかかれば、あらゆる体罰は犯罪だそうだが、ここではその議論は無視する)。しかし、公教育においては教育論よりも法律論が先立つ。教育委員会の役人や教師や日野皓正氏のような受託者の個人的信念で法が歪められるならば、日本は法治国家と言えない。

 第2のパターンは、違法と知りながらも「体罰」に圧倒的な信頼と郷愁を有する人達だ。総じて、高齢の保守主義者に多いのだが、彼らの論に従って教育関係法規を「体罰肯定」へと改変したならば、「自虐史観や自衛隊違憲論を体で覚えさせる」教師が出現しても、それを阻止できなくなる(実際、戦争直後にはそのような学校教育がまかり通っていたという高齢者の証言がある)。それを是として上で「公教育体罰肯定論」を主張するのならば、論旨は一貫しているが、私の知る限りそのような人物はいない。彼らの「公教育体罰肯定論」は想像力の欠如でしかない。

 唯一、考慮に値するのは第3のパターン。公教育での体罰が違法であることを重々承知した上で「無礼な中学生を是正する教育的機会は今しかない」との思いから体罰に至ったと擁護する主張だろう。しかし、日野氏のその後の言動を見る限り、自分が違法行為をしたという認識はまるでなさそうなので、この擁護論には無理がある。
体罰が起きるたびに毎回、無知な者たちの議論を垂れ流すのは、いい加減に止めたらどうだろう。明確に法律で禁じられた暴力行為(従って、法令上は犯罪行為)が多くの人の前で行われた。そこに弁解の余地はない。体罰は、親子間、少なくとも私的空間で十分である。

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