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明治維新の主役の一員だった沖縄

■琉米修好条約等、3条約の返還を求める喜納昌春県議会議長
 平成27年1月3日の琉球新報に沖縄県議会の喜納昌春議長へのインタビュー記事が掲載され、1850年代に琉球国が米国、フランス、オランダと締結した修好条約について次のように述べた。

 「琉球は小国といえども大国と対等に条約を締結したということは大変なことだ」「武力がなくても、外交官としても優秀な通訳官がいて、立ち回りができた。琉球が独立国であったということを当時の国々も認めていたということであり、それは歴然としている」「明治政府は琉球を抑えるために条約を提出させた」「(現在外務省の外交史料館に保管されている条約の原本は)沖縄にも県立の公文書館があり、是非そこに置いてもらいたい」「県議会で決議や意見書として政府に伝えることが出来るのではないか?」「2月定例会のタイミングなどで働きかけたい」

 つまり、これらの条約は当時、琉球国が独立国であった証であるにもかかわらず、その原本を外務省が琉球から取り上げて保存しているので、本来あるべき沖縄に戻すよう働きかけたいということである。
 
■沖縄の自己決定権のキャンペーンのシンボルとされた琉米条約
 喜納昌春議長のコメントの背景には平成26年7月11日に琉球新報が始めた「道標(しるべ)求めて~沖縄の自己決定権を問う」という連載記事がある。ちなみに連載を始めた7月11日は琉米条約が締結された日である。その日の初回の記事に最も重要な主張が掲載されている。

 ①「琉球処分(沖縄県の設置)は国際法上不正である」
 ②「その根拠は琉米条修好条約など琉球が3カ国と結んだ条約であり、琉球は国際法上の主体であり日本の一部ではなかった」
 ③「琉球処分はウィーン条約法条約51条に違反しており、人権侵害に対する責任を日米政府に追求できる」
 ④「ウィーン条約法条約の発効は1980年、日本の加入は1981年だが、琉球処分時点では既に国際慣習法として成立しており遡って適用可能」

 ③と④のウィーン条約法条約の解釈については無理があるが、その反論は別の機会に譲って、今回は①と②の琉球処分や琉球が締結した条約について論じたい。

 筆者はこれらの歴史認識と法律認識は、沖縄県民の郷土愛や自尊心を利用して、沖縄を精神的にも政治的にも日本から分断することを狙った捏造史観だと警鐘を鳴らしたい。
 
■島津斉彬の琉球を利用した富国強兵政策
 琉米条約などの条約の締結は、独立国の証明だと主張しているが、それは江戸時代の琉球の実態からは大きくかけ離れている。そもそも当時の琉球国は薩摩の支配下にあり、貿易の品目すら自由に決めることはできなかった。それならなおさら勝手に条約を締結することはできなかったのある。琉球には薩摩在番奉行所(現在の那覇市西町)があり異国船が寄港したときには逐次薩摩に報告していたのである。当時の薩摩の藩主はこれらの条約締結についてどのように関わっていたのかを探ってみたい。

 これらの条約締結時の薩摩藩主は島津斉彬(藩主:1851年~58年)である。島津斉彬は西郷隆盛ら幕末に活躍する人材を育て、薩摩藩の富国強兵に成功した幕末の名君の1人である。斉彬は琉球がペリーと琉米条約を締結すると、蒸気船1隻をアメリカに注文すること、外国への物資支給を従来のように無償で提供するのでなく、2、3倍の価格を要求すること、貿易品に日本製品を宛てること等を琉球側に指示している。

 彼は1851年2月に藩主に就任するや、藩の富国強兵に努め、洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設、地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造などの集成館事業を興した(2015年にユネスコの世界遺産リストに登録された)。今でいう工業団地を幕末に建設していたのだ。彼が藩主に就任する前には既に琉球にイギリスやフランスをはじめとする異国船が度々来航するようになっており、その情報は逐次薩摩に報告されていた。また、1842年、東洋一の大国である清国がアヘン戦争でイギリスに敗れて以降、ヨーロッパ諸国がアジア各地で植民地化を進めていることもかなり正確に把握していた。斉彬は日本の植民地化を憂慮して軍事力強化の重要性を訴え、富国強兵、殖産興業をスローガンに藩政改革を主張していたのだ。藩主になる前は財政再建派に抑えられていたが、藩主になった直後、長年温めていた事業を集成館事業として着手したのだ。ペリーが琉球や浦賀に来航したのはそれからわずか2年後のことだったのである。

■島津斉彬に引き上げられたジョン万次郎と牧志朝忠
 斉彬が藩主に就任した1851年2月、奇遇な事に同月に幕末の重要人物が琉球に上陸した。ジョン万次郎(本名:中浜万次郎)である。1841年、彼は8歳の時に土佐から漁に出て遭難し米国の捕鯨船に救助されたが、鎖国の日本に戻れないため、船長の養子になり米国の学校で学んだ。首席で卒業した後、捕鯨船の船員として生活をしていたが、日本に帰国することを決意。1850年、同志2人と上海行きの商船に乗り込み、日本への上陸を企て、その上陸地に琉球を選んだ。おそらく本土より取締が緩い事を知っていたのではないだろうか。万次郎たちは現在の沖縄県糸満市の大度浜海岸に上陸。3人の姿を発見した農家の人たちが地元の役人に連絡。役人は3人を那覇の薩摩在番のもとに連行した。そこでは、3人の口から出る話には多大の興味を示し、所持する本、計器類、道具などが注意深く調べた。3人は7カ月もの間、沖縄に抑留され、その間、絶え間なく監視と尋問が続けられたが、彼等の扱いには常に敬意と友好的な態度が示された。万次郎らの上陸は薩摩本国へ伝えられ、鹿児島に呼び出されるまでの間は、豊見城間切(現豊見城市)翁長の高安家から手厚いもてなしを受けた。(2010年には豊見城市翁長にジョン万次郎記念碑が建立されている)。ついに万次郎は薩摩藩主、島津斉彬と面談をするべく鹿児島に呼び出された。斉彬は万次郎を厚遇し、自ら海外の情勢や文化等について質問した。この時に斉彬は万次郎からどのような情報を入手したかは不明である。しかし、3年後の琉米条約の締結、その後の琉球への米国への蒸気船の発注指示に大きな影響を与えたと考えられる。

 琉球にもジョン万次郎のように英語でペリー提督やゲラン提督と堂々と渡り合っていた人物がいた。牧志朝忠という通事役である。1840年、北京留学中にアヘン戦争を目の当りにした朝忠は、清の衰退と列強の恐ろしさを肌で感じ、琉球にもやがて異国の知識と言語が必要になることを確信していた。 帰国後は英語話者・安仁屋政補(あにやせいほ)に師事するなどして英語力を磨いた。(安仁屋政輔は1816年のイギリスのバジル・ホールが来琉したとき、真栄平房昭(まえひら・ぼうしょう)と共に停泊中の船に度々乗船し独学で英会話を身に着けた)。更にイギリス海軍琉球伝道会が派遣したキリスト教宣教師ベッテルハイム(1846年から8年間、琉球に滞在。出身はハンガリー)からも英会話を学んだ。朝忠はジョン万次郎の取調べも担当し、米国史と政治体制についての教えを受け、この知識が後のペリー艦隊との交渉で、「初代大統領ジョージ・ワシントン」の名前を出して米国側を驚かせた。朝忠の有能ぶりは、斉彬から高く評価され、異例の大出世を遂げる。

■島津斉彬の軍艦計画
 琉米条約の締結から2年後の1855年、琉球は再び大激動の時代を迎えた。11月6日、フランスのゲラン提督が条約締結交渉のため3隻のフランス船を率いて那覇港に寄港したのだ。フランスは、1844年から条約締結を求めて何度も琉球に寄港していたが、毎回、琉球側の巧みな先延ばし戦術によって追い返されていた。。しかし、今回のフランスの決意は固かった。日本の開国を米国に先を越されてしまったからだ。フランスの使者が地方官・垣花親方に面会し、交渉は11月10日と約束した。琉球王府は急遽対策本部を設置し、摂政、三司官、通事訳の牧志朝忠などが那覇詰めとなった。フランス側は条約を要求したが、琉球側はいつものように「琉球は小国で産物も乏しい」などと様々な先延ばし戦略で謝絶した。しかし結局、6回にわたる交渉の末にフランス側が激怒、琉球側に銃剣を突きつけての調印となったのである。フランス側の武力による強引な調印である。

 このような動きを薩摩が知らないわけはない。琉球を管理していた島津の藩主、斉彬はこの交渉過程の一つ一つに裏から指示を与えていた。斉彬は日本の置かれている国際的地位の大変動を感じ取っていた。鎖国政策は遠からず根本的に改変を迫られることを確信しえいた。フランスが琉球国において貿易の機会を求めていることに大きな可能性を感じ取っていた。琉仏条約を締結するとその条約を根拠に琉仏関係は動き出した。1857年2月、仏国宣教団から若年の国王・尚泰に野砲一式が提出された。これは、いわゆる「貿易商品の見本」で、島津斉彬が最も興味を示していたものだった。牧志朝忠にはこの新兵器の扱いに習熟するようにと命令が下っていた。1857年には長崎出島の蘭館に使いを派遣し、オランダと琉球との通商について詳細を大島で密議しようと提案させた。更に琉球官吏に指示して、那覇におけるフランス人を通じて、軍艦2隻(1隻という説もある)の注文と琉球人学生5人の派遣を交渉させた。

 1858年2月、薩摩から派遣された市来と牧志はフランスとの直接交渉に動き始めた。1855年締結の条約により、幾人かの若者がフランス語学習を目的にフランスへ送られ、また琉球が小型戦艦と武器類をフランスから購入することによって、以後、定期的に商業取引を行うことが合意されていた。斉彬の計画はここまでうまくいっていた。琉球経由の貿易を利用した富国強兵策である。フランスに発注した軍艦や武器は1859年3月までに到着する予定であった。斉彬はおそらくこの時、富国強兵に成功した薩摩の軍事力で幕府を倒し、次は全国レベルでの富国強兵、殖産興業政策を実施し、統一近代国家日本を建設することによって、西洋列強による日本の植民地化を回避するビジョンをもっていたのではないだろうか?

■琉球の悲劇を産んだ斉彬の急死
 ところが、フランスから軍艦・武器が届く前年の8月25日、斉彬が急死し、異母弟の久光が藩の実権者となった。久光は斉彬の計画を全て抹殺するかの勢いで斉彬の配下の者を処分した。琉球への影響も極めて甚大だった。最も大きなわしわ寄せを被ったのは斉彬の指示によって動いていた牧志朝忠、恩河朝恒である。軍艦注文は即座に取り消されたため、責任者が落馬し急死したということで取り繕い、多額の違約金を支払って解約した。琉球王府内の反薩摩派は、薩摩の政変を注意深く見極め、久光が積極的に介入はしないと確信し、親薩摩派(斉彬派)への報復に動きだした。同年9月、収賄や国王廃立の謀反容疑で、三司官(琉球王府の宰相職)の小禄良忠、王族の玉川王子朝達、牧志、恩河らが逮捕、尋問された。それぞれに拷問が加えられ自白を強要される。翌年、牧志が自白したとされ久米島に10年の流刑、恩河は同じく6年、小禄は伊江島に500日、玉川王子は蟄居の身となった。恩河は刑確定まで獄中にあったが、同年3月、拷問で衰弱し流刑前に死亡した。薩摩は、緊急の要件ありとのことで牧志を鹿児島に呼び出した。牧志本人は知るよしもなかったが、薩摩は牧志の英語能力と外交手腕を必要とし、薩摩の役人たちのための英学師範に任命されることになっていた。牧志は7月、厳重な警備の下に出航したが伊平屋島沖で船から身を投げ出し自殺した。この一連の処罰で琉球王府は国際感覚を持つ優秀な人材を失った。そのため、明治政府の中枢を担った薩摩の志士は20年後、沖縄県の設置の際、明治維新に無理解な琉球の役人に手を焼くことになったのである。

 牧志自殺の2カ月後の1862年9月、島津の家来の1人が横浜近郊の生麦村で英国人を殺傷した。いわわゆる「生麦事件」である。翌年8月、英国の戦艦7隻が賠償を求めて鹿児島湾に侵入。生麦事件犯人の逮捕と処罰、および遺族への「妻子養育料」を要求。薩摩藩はイギリス側の要求を拒否し戦闘となる。両軍ともに大きな損害を被り、同年講和。以後、久光は英国海軍へ傾倒し、一旦は斉彬の政策を全て否定した久光だったが、事実上斉彬の政策を引き継ぎ、日本開国の先駆者となったのである。

■決定的な倒幕外交、パリ万博の薩摩琉球国勲章
 1865年、薩摩藩は藩士19人をイギリスに派遣した。使節3人、留学生15人、通訳1人で、留学生の1人は土佐藩出身、通訳は長崎出身の者であった。彼等は薩摩スチューデントと呼ばれている。当時、幕府は日本人の海外渡航を禁止していたため、甑島・大島その他島々へ出張と称し、それぞれ改名した上で出発した。彼らはロンドン大学で学んだり、イギリスの技術を藩に導入するための交渉を行ったりしていた。

 1867年にフランスで開催されたパリ万国博覧会は日本が初めて参加した国際博覧会だが、そこに江戸幕府とは別に薩摩藩は幕府の許可を得ることなく独自に出展を行った。「日本薩摩琉球国太守政府」を自称して幕府とは別の独立国の政府であることを国際社会に訴えようとしたのである。これによりヨーロッパ諸国において幕府の権威が低下することとなった。

 その戦略の極めつけが勲章の製作と贈呈である。薩摩藩は参加記念章として「薩摩琉球国」の勲章を作った。赤い五稜星の中央に、丸と十を組み合わせた島津家の紋が白地で乗っている。紅白のコントラストが鮮やかで、五稜の間には「薩摩琉球国」の5文字が金色に光る。これは、日本最初の勲章である。薩摩藩のその勲章をナポレオン3世をはじめフランス高官に贈った。その返礼としてナポレオン3世から記念メダルを貰っている。この時、幕府もフランスで勲章外交を行うために独自の勲章(葵勲章)制作を開始したが、同年11月9日に15代将軍徳川慶喜が政権返上を明治天皇に奏上し幕府は瓦解したため、幻となった。結果として薩摩の倒幕外交は成功したのである。ちなみに前述の薩摩スチューデントはフランスへも赴き、パリ万博の薩摩藩の展示に関わった。

■江戸時代の沖縄の地位
 ここまで、幕末の琉球国の外交と薩摩藩の関わりを延べてきた。琉球は薩摩の外交の窓口だが、実際は薩摩がコントロールしていた。では、江戸時代の薩摩と琉球はいったいどのような関係だったのか? それを知るには、1609年に遡らなければならない。薩摩は次のような大義名分で琉球に侵攻した。「創立当初の徳川幕府に贈り物を献上するようにすすめたが、それに応じなかった」「琉球船漂着に対し、乗員を保護し薩摩を通じて帰国させたが礼を欠いた」などである。1609年2月、薩摩は3000の兵を率いて、山川港を出発した。薩摩の武士たちは沖縄本島の本部半島の運天港から上陸し、南下して首里を攻めた。琉球王府の守備隊は百戦錬磨の薩摩兵の前には無力に等しかった。 4月5日、首里城は薩摩に占領され、国王は捕縛され薩摩へと連行された。国王と三司官は、予め用意された3カ条からなる宣言書に同意と署名を求められた。続いて、15カ条からなる訓戒・説論に従うことが求められた。これは薩摩の掟十五条と呼ばれている。

 ①中国よりのいかなる物資、物品といえども、まず薩摩藩主の許可なしに輸入してはならない。
 ②いかに名声のある者でも、その家柄のみにより報酬を与えるのではなく、公共の奉仕に功ある者に与えること。
 ③領主の側室に公費を以って恩情を施してはならない。
 ④個人による従僕の所有は認められない。
 ⑤寺社の建立は過度にならぬこと。
 ⑥商人は薩摩の許可状なくして、那覇より商品の搬出、搬入の商行為をしてはならぬ。

 ⑦いかなる琉球人といえども奴婢として本土に連行してはならぬ。
 ⑧すべての税及び関税の類は本土の権威ある者の定める規定、規約に則ってのみ課することが出来る。
 ⑨国王は三司官以外の者に島の施政を任してはならない。
 ⑩個人の意思に反し売買を強制されてはならない。
 ⑪口論や争いごとを禁じる。
 ⑫管理が商人や農民の奉仕に課せられる税や報酬が規定以外の額になると目される場合は、鹿児島の薩摩当局に報告すること。
 ⑬琉球より外国へはいかなる商船といえども出帆することを禁じる。
 ⑭京判による標準度量衡以外の基準を用いてはならない。
 ⑮賭博やそれに類する悪習慣を禁じる。

 この15か条は結局、薩摩が琉球の貿易を独占するためのものである。江戸幕府の名前は1つも出てこない。特に、①、⑥、⑧、⑬は貿易経済活動に関する条文となっている。この時から、琉球は薩摩の附庸国であり、琉球独自の外交は存在しないのである。これを薩摩の琉球侵略と捉えがちだが、決してそうではない。国家体制こそ異なるが当時の琉球の人々も日本民族の一員だから民族統一の戦争なのである。それも戦国時代最後の統一を果たした戦争と位置づけるべきである。日本の幕藩体制の完成の戦争である。

 1609年以降の琉球王国という国の存在は薩摩が明国や清国と貿易するために残した飾りであり、プロパガンダである。これが、明治の沖縄県設置直後に清国が「琉球は明の時代より中国に朝貢冊封を行っていた藩属国である」と主張する根拠となってしまったのである。結局、琉球処分とは薩摩自信が蒔いた「琉球国の存在」という国際プロパガンダを明治政府で元勲となった薩摩の志士たちが刈り取る作業だったのである。ここでいう刈り取りとは、琉球国の清国への朝貢冊封の関係を断ち切ることであり、それは清国と開戦寸前までもつれこんだのである。

■沖縄は明治維新の主役の一員
 学校の教科書や書店に並ぶ歴史書では、明治維新は1853年の黒船来航から始まり、1877年の西南の役で終わると解釈されている。そして、明治維新が終わった後の国境の確定作業として、琉球処分(沖縄県の設置)がでてくる。これが、「明治維新の結果琉球王国が滅びた」という歴史観を産み、沖縄は日本の被害者だとか、琉球沖縄の人々は日本の中の先住民族だとする勢力の主張を後押ししている。

 しかし、薩摩の志士が危機感を持ったのは、1840年代前半、西洋列強の船が日本開港の足がかりとして次々と琉球にやってきたことに対する危機感から始まったのである。西洋列強の船が琉球に次々現れたのは、1842年、アヘン戦争で清国がイギリスに敗れ、南京条約で5つの港を西洋列強に開放したからだ。5つの港とは、広州、福州、上海、寧波、厦門である。地図で東シナ海を見て欲しい、5つの港から日本に向かうと途中に琉球、現在の沖縄がある。日本開港の拠点として最適の地である。大東亜戦争における沖縄戦だけでなく、幕末、明治維新においても沖縄は日本の国防最前線だったのである。

 論文のまとめになるが、大きな括りではあるが明治維新は次の3つのステップを経て実現したことになる。

 ①アヘン戦争直後の琉球の危機(=日本の危機)に気がついた薩摩藩の琉球を活用した富国強兵・殖産興業政策。
 ②薩摩を中心とした雄藩による倒幕、中央集権国家の建設。
 ③琉球の朝貢冊封関係の停止及び沖縄県設置(=琉球処分でいう処分とは琉球と清国との朝貢関係を絶つこと)。

 この実際の流れを冷静に見ると、明治維新は琉球の危機に始まり沖縄県設置で近代的中央集権国家が完成し終わったことになる。また、明治維新の原動力は薩摩藩だけではない。琉球国だけでもない。江戸時代の薩摩と琉球の関係は、琉球あっての薩摩藩であり、薩摩あっての琉球である。江戸時代の幕藩体制の中で南の端の2カ国の特殊な関係がシナジー効果を生み、成長し、幕末における富の蓄積は江戸幕府を凌駕するものとなり、明治維新の主役として江戸幕府を倒し新政府を作ったのである。そうであるなら、琉球国も明治維新の主役の一員であったのだ。決して明治政府により滅ぼされたのではない。

 ただし、一つ大きな失敗があった。幕末の琉球では斉彬の急死後、親清派により親薩摩派が完全に追放され、清国との朝貢冊封関係に執着する親清派で占められてしまったことである。これが、沖縄県設置の際、明治政府が清国と琉球の朝貢冊封関係を断ち切るのに苦労した原因になっている。もし、斉彬が急死せず、親薩摩派の指導者が琉球に残っていたなら、牧志朝忠など琉球出身の維新の志士が輩出され、その後、明治の元勲として歴史に名前を残す人物も現れていたに違いない。そうなれば、沖縄が明治政府の被害者だという歴史を捏造されることもなかっただろう。

 現在の沖縄の危機も同じ状況にある。親中派政治家がマスコミと一体となって沖縄の政治権力を握っており、愛国政治家を選挙で葬り去ろうとしている。日本の危機を回避するため、日本を再建するためには、決して沖縄の指導者は親中派であってはならない。沖縄の指導者が愛国者であることこそが日本繁栄の条件なのだ。

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