ワシントン・タイムズ・ジャパン

挨拶とは修行である

 「挨拶の力」というものについて、私の観念を根底から揺さぶったエッセイがあります。禅宗の僧侶にして作家、玄侑宗久氏のエッセイ集『ベラボーな生活禅道場の「非常識」な日々』に収められた一つの体験談。出会ったのは6年程前です。

 玄侑氏が新米修行僧だった頃のこと。毎朝寺の広い庭を掃除していると、散歩しながらやってきては挨拶をする年かさの僧侶がいた。ところが、新米僧侶は掃除に忙しく、顔も上げずにろくな挨拶も返していなかった。

 その様子を心配した先輩僧侶が、ある日「お前、ちょっと」と言って、教えてくれたことがある。
 「毎朝挨拶してこられる方が誰だか知っているのか? この寺の管長さんだ」
 そう言いながら、その管長の昔の逸話を一つ教えてくれたのです。

 管長が若い頃、毎朝散歩するときに出会う一人の老人がいた。その老人に挨拶をするのだが、無視するように、老人はなぜか一度も挨拶を返したことがない。一方の挨拶のみが空しく繰り返される朝の出会いが何年も続いた。

 ところが、ある朝。いつものように管長が老人に挨拶の言葉をかけたとき、まったく思いがけない出来事が展開した。老人は突然立ち止まり、さっと管長に近づいたかと思うと、予期もしないことに大声で号泣し始めたのです。

 老人の内面に一体何があったのか。この話を教えてくれた先輩僧侶も、老人の号泣の意味までは知らなかった。おそらく管長も、老人の心中は問いたださなかったのに違いない。

 私は玄侑氏この逸話を読んで、2つの「すごさ」に驚嘆したのです。

 ① 返事も返さない相手に、飽くことなく何年にもわたって挨拶をし続けた管長のすごさ。
 ② おそらく老人の心の深いところを動かし、号泣までさせた挨拶の力のすごさ。

 私たちは、日常何気なく挨拶を交わす。それが特段難しいこととは普通考えませんが、こちらの挨拶を相手が無視するとなると、心は穏やかであり得ない。しかも管長の場合、それが1回2回ではない。数年も続いたのです。

 お寺の修行には読経もあれば、庭掃除も水行も断食もあるでしょう。しかし、推測するに、返事の返らない挨拶を何年も続ける以上の修行はないかも知れない。この修行は数年の間に、何かすさまじい力を貯め込んだ。その力がある朝、突然のように、老人の固く閉じた胸の扉をばあっと開いたのではないか。私はそんなふうにも推測するのです。

 挨拶とは、もともと禅宗の言葉で、修行僧同士が行き交うときに、お互いの修行の到達度を確かめ合うやりとりのことだったようです。それがいつか、普通の人が行き違うときに交わす言葉を挨拶というようになったのですが、挨拶の本質はやはり並みの儀礼行為などではない。

 挨拶は俗なる日常でなし得る最高の修行の一つではないか。そう考えるようになったのです。

 例えば、家庭で朝起きたとき、夕方帰宅したときに、子どもたちに挨拶をする。ところが、子どもたちは寝ぼけ眼だったり、ゲームをしていたり、テレビを見ていたり、机に向かっていたり、まともな挨拶が返ってくることはまれです。そういうときに、むっとなります。「挨拶はどうなっているんだ」「そっちが無視するなら、こっちも無視だ」と心の中で捨て台詞を吐くことがある。

 しかし、管長さんが数年間待ったことを考えると、1回や2回はなんでもない。「これが私の修行だ」と思うと、心の乱れがすうっと収まるのです。

 相手から挨拶が返ってくるかどうかは、実はたいした問題ではない。自分自身がどれだけ修行を積み、相手の心の深いところを動かし得るだけの力を養うか。挨拶を返してくれない人は、却って私の修行を加速してくれる有り難い相手だとさえ思われるようになります。

 挨拶とは、まさに修行である。6年間、私は何度もあのエッセイに立ち戻るのです。

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