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七夕の日に天に召された大正時代の女性教師「小野さつき訓導」

 7月7日は七夕でしたね。短冊に願いを込めて笹の葉に括りつける。色とりどりの短冊が天の川の下でそよそよ揺れる。七夕祭りは各地で開催されているほど、日本の夏の風物詩となっています。

小野訓導の遺影

 そんな七夕の日に、大正11年(1922年)、宮城県仙台市蔵王町でひとりの女性教師と児童が亡くなる水難事故が発生しました。女性教師の名前は小野さつき。当時は教諭のことを訓導と呼んでおり、「小野訓導」として地元の人達に知られています。蔵王町の宮尋常高等学校(現・宮小学校)に赴任していたため、小野訓導を偲ぶ遺徳顕彰会が、宮小学校で伝統的に受け継がれ、今年で95回目を迎えました。
 私は縁があり、小野訓導のことを4年前ほどから研究し、宮小学校にも何度か足を運びました。顕彰会は毎年行われていますが、5年に1度、町長や教育委員長などを来賓に迎え、大々的に式典を行います。学校内での式典だけではなく、小野訓導が眠っているお墓のある三谷寺に、教師と来賓の方々でお参りに行き、お経をあげてもらうのです。

小野訓導顕彰会の様子

 100年近く前の出来事を、今でもしっかりと受け継ぎ、顕彰会を行っていることには本当に驚きました。ですがそれ以上に、地元でこんなに親しまれている小野訓導のことが、蔵王町の隣の白石市になると知っている人が徐々に少なくなり、宮城県全体ではほとんど知られていないのです。当時、小野訓導の事故は美談として全国的に知られるほどの反響を呼び、日活が映画化したり、実業之日本社が小野訓導を偲ぶ歌を募集し、それに山田耕作が曲をつけたり、三波春夫が小野訓導のために作詞作曲して「花咲く墓標」というレコードを出したほどでした。
 それほどまでに大きな反響を呼んだ小野訓導の人となりとは、また、小野訓導が殉職した水難事故とはどのようなものだったのでしょうか。

●反対する父を説得するほどなりたかった教師
 小野訓導は、尋常高等学校を卒業した後、教師になるという夢を抱き、白石実科高等学校に編入。常に成績優秀で、人のために何かをしてあげることが好きな、明るく、誰からも好かれる性格でした。それはきっと、世のため人のために生き、義理人情を大切にする、武士の精神を受け継いでいた父の教えがあったからなのでしょう。
 教師になるためにはさらに、仙台女子師範学校に通う必要があったのですが、父は猛反対。父は農家の嫁になってほしいという願いがあったため、教師になることに反対したのでした。ですが、娘から何度も懇願され、「無理に止めて、もしどんな不運にあって苦労させないとも限らない。その時になって後悔したとて栓のないことだ。よしんばどんな苦しい目に遭うとしても、自分で望んだことなら諦めもつくだろうから、いっそのこと許してやるか」と師範学校に通うことを許可したのでした。
 そして師範学校も優秀な成績で卒業した後、小野訓導は大正11年4月に、望んでいた宮尋常高等学校に赴任することになりました。当時は教師の数はそれほど多くなかったにもかかわらず、子供の数は1学年に60人名以上もいるという状況でした。小野訓導も赴任早々、66人の4年生の担任を受け持つことに。教師としての仕事に熱心で、子どもたちからも慕われる教師でした。ところが、赴任してから3カ月後、あの事故が起きたのでした。

●「絶対に助けたい」、その一心だった小野訓導
 当時の7月7日は気温が30度近くもあるほど暑く、そんな中、お昼頃に受け持ちの4年生56人(当日は10人欠席)を引き連れて学校近くの万歳河原と呼ばれている白石川に写生をしに行きました。子供達は最初一緒懸命、蔵王連峰と川を写生していましたが、一通り描き終えたころ、水に浸かりたいと騒ぎ出しました。小野訓導は初めのうちは渋っていましたが、足だけなら浸かっていいと許可し、自分の傍から離れないようにと注意しました。
 ところが、成澤君という児童と他2人の児童が、向こう岸にある小舟まで泳いでいこうとこっそり小野訓導の監視の目から離れたのでした。白石川は、浅瀬から一気に深くなる場所があります。それに加え、前日に大雨が降って増水しており、流れが急になっていました。3人の児童は深みにはまるところで川に流され、助けを求めます。浅瀬にいた児童が気づき、慌てて小野訓導に伝えると、袴を着たまま急いで川に飛び込みました。浅瀬から近い所にいた2人の児童はすぐに助けることができましたが、その間に成澤くんはどんどん流されて行きます。小野訓導は単衣になろうと帯をほどこうとしますが、水で硬くなっていてほどけない。とにかく成澤くんを助けないといけない、と、そのまま泳いでいこうとする。「先生、行かないで!」他の児童が小野訓導を止めるが、それを突き放し、川に飛び込みます。
 「助けて!」川に飲み込まれながら叫ぶ成澤くんに手を伸ばし、小野訓導は必死になって成澤くんを捕まえました。そのまま岸まで泳いで行こうとしたものの、成澤くんに掴まれているため、自由に泳げず、岸辺にいる児童に「学校に知らせて!」と声をかけ、数名の児童が600m離れた学校へと走って行きました。その間に不運にも、袴の裾がほどけて頭に被さり、小野訓導と成澤くんは川に飲み込まれてしまったのでした。
 児童たちは学校だけではなく、近くで漁をしていた人に知らせたり、近くに住んでいる人にも知らせたりして、そのおかげで地元の消防団にも事が伝わり、甲高い半鐘の音が村全体に広がりました。小野訓導の両親と、成澤くんの両親にも知らせが行き、慌ててかけつけました。小野訓導の父はリウマチを患っており、片足が動かせなかったのですが、娘の一大事と聞いて、白石川まで馬に乗って駆けていきました。
 現場では消防団員と教師や村人たちが小野訓導と成澤くんを探し出し、岸辺に引き上げます。医者が呼ばれ、2時間もの人工呼吸が行われたものの、とうとう2人は息を吹き返すことがありませんでした。そこに、成澤くんの父親が駆けつけます。普通であれば我が子に駆け寄るところを、真っ先に小野訓導のもとへ行き、「息子のせいで申し訳ないことをしました」と涙ながらに謝ったそうです。そして、小野訓導の父親がかけつけ、遺体となった娘とその児童を目にしたとたん、現代では考えられない一言を発しました。
 「さつき、よく死んでくれた」
 その言葉に続き、成澤くんの父親に向かって頭を下げました。「成澤さんの息子さんを死なせてしまったのは、助けられなかった娘のせいです。受け持ちのお子さんを死なせて、うちの娘が生きていたらそれこそ申し訳ない。娘はよく死んでくれました」
 その場にいた誰もが、その言葉に涙を流したことでしょう。

●小野訓導の墓前の前での決意
 この話が美談として全国に広がり、小野家にもたくさんのメディアが訪れたことが想像されます。リウマチに心労が重なったのか、小野訓導の父親はそれから約1カ月後、娘の後を追うように息を引き取りました。
 宮小学校では子供達に小野訓導の話を聞かせ、水難事故が起きないよう注意を促し続けてきました。そのおかげか、この事故以来、地元では1度も水難事故が起きていません。現宮小学校の校長先生は、小野訓導の御霊が見守ってくださっているのでしょうと子供達に話していました。
 大人の目線から小野訓導のことを考えると、やはり父親の言葉に胸を打たれます。江戸末期から明治、大正を生きた父親だったとはいえ、娘の死を見せつけられて内心は気が狂いそうになっていたことでしょう。それでも、「人さまの子供を死なせてまで生きていなくてよかった、よく死んでくれた」という、死んでもなお、娘の訓導としての責任と自負を保たせるやるように言えるというのは、並大抵の精神ではありません。世のため、人のためを貫き通す一本筋の通った父親の言葉、忘れることができません。
 あれから95年を数える今年の七夕。取材も兼ねて宮小学校に足を運んで顕彰会に参加し、小野訓導の墓前にも手を合わせてきました。100年近く経つ今、小野訓導の美談を全国的に伝えられるよう、改めて頑張りますと小野訓導に決意することができた、そんな七夕の日となったのでした。

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