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多くの日本人に欠けている宗教への理解

~なぜ、今、宗教について語るのか~

 「あなたの宗教は何ですか?」この問いに対して、あなたは何と答えるでしょうか。多くの日本人が、特に気にもせず「無宗教です」と答えてしまうのかもしれません。ところが、その一方で、多くの人が、正月に初詣をし、七五三の宮参りをし、バレンタインデー、ハロウィン、クリスマスを祝い、お盆に墓参りをし、祭りに神輿を担いだりしていたりするわけです。

 日本の戦後の失敗のひとつに、宗教に対する意識改悪があるといえます。それは、戦前の日本の強さを恐れた戦勝国の方針と神を否定する唯物共産主義の日教組によってもたらされた不幸であるともいえます。

 しかし、世界に視野を広げたとき、宗教への理解は非常に重要なものとなっているのです。国によっては無宗教では信頼されないということも実際にあります。

 戦後日本人の国際性欠如の一部分は間違いなく宗教への理解不足にあると言っていいでしょう。戦後からの脱却のためには、まさに宗教への理解を見直すことが必要となっているのだと考えられます。

 日本人は、実際は非常に信仰深い民族です。自然との共存の中で、目に見えない存在を信じ、畏れを抱き、崇拝し、大事にしてきた歴史があります。自然信仰をベースとした日本文化の礎ともなっているのが神道であると言っていいでしょう。大樹や動植物、死者をも神として祀ることが行われきたわけです。神話の世界から、身近な生活に至るまで、目に見えない存在と共に生きてきた民族であったわけです。

東大寺盧舎那仏像(Wikipediaより)

 仏教、儒教、道教、キリスト教と海外から伝わってくる宗教に対しても「排斥するのではなく、受け入れて共存する」というのが基本的なスタンスであったわけです。政治が絡むと例外的な対応がなされてきたこともありましたが、基本的な部分では受容するというのが日本人の信仰感覚であったといっていいでしょう。

 結局のところ、歴史を振り返ってみれば、日本人の宗教観を崩していったのは、政治と教育の中にその要因があったのだと感じます。

 まず、江戸時代における初期のキリスト教弾圧と神仏を政治に利用して民衆を管理した寺社制度によって宗教が大衆化に向かうことになってしまいます。

 そして、明治維新、廃仏毀釈で、神道を国教として天皇を現人神に奉りあげてしまいます。その結果としての戦争と敗戦、占領軍によって、政教分離が行われると共に教育の中から宗教的なものが排除されてしまいます。その結果、教育は唯物的なものとなってしまい。宗教的な教育が希薄となっていきました。

 宗教は道徳と密接に関わっています。道徳意識の低下が、実は日本の現代社会における多くの問題の根底に流れているのではないでしょうか。道徳意識を向上させていくための一つの要素として宗教的な意識の見直しや教育の在り方を考えていくことが必要であるように感じます。これは、単に宗教界だけの問題ではなく、教育界の問題でもあり、地域社会の問題でもあり、一人ひとりの個人の問題でもあるといえるでしょう。

 ここまでの話は、あくまでも私の個人的な歴史観であり、社会や宗教に関するとらえ方にすぎません。宗教観や歴史観は個々人で異なるもので、また異なっていることは悪いことではないと考えます。多様性があるのは当然なことです。

 ただし、異なるからという理由で反目し合うことに価値があるとも思っていません。それぞれの視点を認めつつ、その中で共有できるものを互いに確認し、尊重し、認め合っていくことが大切であるといえます。

 宗教への理解と信仰への意識について、今一度、一人ひとりが自分のこととして見つめ直してみることが必要になっている時代であると感じています。だからこそ、宗教観と信仰観について、感じること学んだこと考えたことを、お伝えしていくことに価値があるのだと思っています。

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