ワシントン・タイムズ・ジャパン

けん玉の輪・藤原一生初代会長との出会い

 私が20年以上にわたり、けん玉を継続してこれたのは、多くの方々の出会いがあったからである。その中でも、日本けん玉協会の創設者である藤原一生(ふじわらいっせい)先生との出会いが私の人生を変えた。

日本けん玉協会の創設者・藤原一生先生

日本けん玉協会の創設者・藤原一生先生

 藤原先生は児童童話作家で、代表作に「タロ・ジロは生きていた」がある。この本は、南極物語の原作であり、何度も映画化、テレビ化されて有名になった。

 藤原一生先生とお会いできたのは1991年。今から約25年前のこと。私がリハビリの専門学校の夜学に通っていた時分、友人がけん玉をやってみたいと言って日本けん玉協会会長宅を訪ね、再訪の時、私も自宅を訪れた。専門学校から比較的近くに会長宅があった。当時、日本けん玉協会の事務所を兼ねていた。

 藤原先生は、当時、テレビ朝日の「徹子の部屋」に出演したり、様々なテレビ局にも出演してけん玉を紹介していた有名人だった。私は夜学生だったが、専門学校の学校祭(ふくろう祭)の特別講演を依頼しに、再度、藤原先生宅を訪ねてお会いした。先生は特別講演を快諾してくださった。「講演の題名はどうしようか?医学の学校だね。人生の解剖というのはどうかな?それでよろしく」と。

 この時の講演内容は、http://kendama65memory.blogspot.jp/p/blog-page.htmlをご覧いただきたい。

 藤原先生の著書である「スポーツけん玉教室」に、健康とけん玉に関するヒントがあった。そこには、「1974年、腹膜炎で病院生活を送る。そのとき、運動のためにけん玉を取り寄せ、けん玉のすばらしさを感じ、翌年、退院してからすぐ、日本けん玉協会を創設。5月5日の子どもの日を創立記念日とする」と記されていた。

 これを読んで、けん玉がリハビリのツールとして使えるに違いない!と確信し、卒論研究でけん玉を扱った。そして病院でもけん玉教室を始めたのであった。

 3年前には、世界オープンけん玉選手権大会のメイン大会を「藤原一生杯」と命名し、昨年9月には、羽田空港国際ターミナルで、日本けん玉協会40周年の記念企画として、この藤原一生杯を行った。世界各国のけん玉の選手が集い、テレビでも取り上げられた。

けん玉は、一人でもできるが、けん玉を通した人との出会いは人生を豊かにする。藤原先生は「けん玉の響きは平和の響き」という名句を残した。

 平和は人と人とが支え合い、平和の輪が広がってなされる。けん玉で平和への貢献を目指して、できることをコツコツとやっていく次第である。

 最後に、1992年の藤原先生の文章「私見/直言」の一部を紹介する。藤原先生は、けん玉の発祥の地とされているフランスにも行かれている。その時のエピソードも語られている。

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一本のけん玉に潜むドラマ

 けん玉を楽しんでいる日本中の無名の少年少女たちが、その発明発見の主流をなしている。
 けん玉のみごとな技の発明発見の動機も、一般発明界と少しも変わることはない。その多くは“偶然の発見”が多い。
 一般の発明発見の世界では、「ふべんなこと」から追求してゆくドラマが潜んでいるが、けん玉の世界では“遊び”の中から今まで思いもしなかった技が不意に目の前に出現することがある。
 一瞬の感動が、次のウルトラC発見へとつながってゆく。
 その成功のドラマも計算のもとに作られるものではない。たえず追い求める心が、目に見えない糸をたぐっているのだ。考える心の中から新しい考えもにじみ出てくる。創造力の豊かなドラマへと転じて行く。
 すばらしい技は技を呼ぶだけではない。人々の目をひきつける技は、また、思いがけない感動の輪を呼ぶ。
 今春3月、パリの日本人学校伝承活動のひとコマ、ひとコマがくっきりと目に浮かんでくる。
 体育館に足をふみいれると、全校生徒の声がどっと上がった。日本けん玉協会のこともよく知っていた。
 喜びと感動の半面、なぜ、この遠いフランスの地までけん玉の輪がひろがったのか、その波及のなぞに一瞬、心の動きが止まった。しかも、大半の子がけん玉を持っていて、級・段認定の技を楽しんでいる。
 はじめて見る楽しいゲーム、ニューウルトラCに燃え、燃え、大歓声がこだました。
 別れるとき、一列にならんだ子どもたちの一人ひとりの手が熱っぽく汗ばんでいた。私にとっても、幸せの一瞬であった。
 「けん玉のひびきは平和のひびき」。私の大好きなキャッチフレーズである。この美しい響きを守り続けなければと思う。

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