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  • 堂本かおる
    堂本かおる
    ニューヨーク在住フリーランスライター
    菊田 均
    菊田 均
    文芸評論家
    松本 健一
    松本 健一
    評論家
    中岡 弘
    中岡 弘
    著述家
    大島 直行
    大島 直行
    伊達市噴火湾文化研究所長
    時広 真吾
    時広 真吾
    舞台演出家
    渡辺 久義
    渡辺 久義
    京都大学名誉教授

    静御前と満開の桜花

    春の訪れとともに、梅の花が咲き、桜が咲き、桃の花が咲いて、それらが終わる今頃の季節に咲くのが、オダマキ(苧環)の花です。
    と、苧環(オダマキ)は、小さくて可憐な花です。
    なんだか舞を舞っているような姿をしています。

    源義経は、このオダマキ(苧環)の花を、静御前(しずかごぜん)に見立てました。
    誰もいない山中であっても、決められた約束事を守り通そうとした義経と静御前。
    並み居る荒武者たちのまえで、女一人の戦いを挑んだ静御前。
    そこは、何百年もの間、武家の女性たちから愛され尊敬され続けてきた静御前の生き様があります。

    ─────────
    流転の旅と吉野山中の別れ
    ─────────
    よく時代劇などで、大奥のお女中たちなどが、忍び込んだ曲者に気がついて、薙刀を持って頭に鉢巻を絞め、
    「曲者でございます。お出会えそうらえ」などといって廊下をバタバタと走 る姿などが描かれます。
    武家の娘といえば、まさに薙刀が定番だったわけですが、なぜ、江戸時代の武家の娘さんたちが薙刀を習ったかというと、実は、静御前への憧れからきていたといわれています。

    静御前といえばいまでいうダンサーである白 拍 子だった人であり、 源 義 経とのロマンス が有名ですが、同時に彼女は当時の世を代表する薙刀の名手でもあったのです。
    武家の女性たちにとって、まさに静御前は永遠の憧れだったし、だからこそ、彼女たちは静御前に倣って、薙刀を学んだのです。おそらく静御前は、日本史上もっとも多くの女性から愛され続けた女性であろうと思います。

    実は、この薙刀、たいへん強力な武器です。相当腕の立つ剣道の達人でも、女性の扱う薙刀の前に、手も無くやられてしまうことがあります。
    そういう意味では、江戸の武士たちは、もっとも強力な武器をむしろ女性たちに与え、自分たちはそれより弱い、大小二本の刀を腰に差していたともいえるわけです。

    ちなみに大小の刀二本を差したのには、理由があります。
    大刀は、もちろん相手を斬るためです。
    そして小刀は、その責任をとって自らの腹を切るためのものとされていました。
    武士は斬捨御免だったなどと言われます が、実は、人を斬れば、自分も責任をとって 腹を切る。
    それが武士の覚悟というものでし た。

    さて、静御前は飢饉の際に「雨乞い神事」を行い、ただひとり雨を降らせることができた「神に届く舞」を踊れる白拍子として、後白河法皇から「都一」のお墨付きをいただいた女性です。
    この神事のとき、後白河法皇の側にいた源義経は、静御前のあまりの美しさに心を打たれ、その場で御前を妻に娶ることを願い出ました。以来二人はずっと寝起きをともにします。

    けれど京の都で雅な生活をする義経は、鎌倉にいる兄の 源 頼 朝に疎まれ、ついに京を追われてしまいます。
    京を出た義経一行は、尼崎から船に乗って九州を目指すのですが、暴風雨に遭って船が難破してしまい、一行は散り散りになってしまいます。

    嵐の中でも、決して手を離さなかった義経と静御前は、一夜開けて芦屋の里に漂着します。
    九州落ちが不可能となったため、生き残った弁慶や 源 有 綱、堀景光らと一緒に、陸路で大和へと向かいます。目指すは奥 州 平泉です。

    大和の吉野山に到着した義経らは、吉水院という僧坊で一夜を明かします。
    そこからは、大峰山の山越え路です。
    ところが問題がありました。大峰山は神聖な山で、女人禁制なのです。
    女の身の静御前は立ち入ることができません。
    やむなく義経は、静御前に都へ帰るようにと告げます。

    「ここからなら、都もさほど遠くない。これから先は、ひどく苦しい旅路ともなろう。そなたは都の生まれ。必ず戻るから、都に帰って待っていておくれ」
    それを聞いた静御前は、「私は義経さまの子を身ごもっています」と打ちあけます。
    そして、 「別れるくらいならいっそ、ここで殺してください」と涙ぐみます。
    このときの静御前は、鎧をつけ大薙刀を持っています。
    鎧姿に身を包み、愛する人との別れに涙する絶世の美女、泣かせる場面です。

    ここでひとこと注釈を挟みます。大峰山は、たしかに女人禁制の山です。
    しかし、義経一行は、 頼朝に追われた逃避行です。
    いわば緊急避難行動中です。
    たしかに静御前は女性ですが、大峰 山に入る姿を誰かに見られているわけではありません。
    関所があるわけでもありません。つま り、女人禁制とはいっても、女性を連れて入ろうとすれば、いくらでも入ることができる状態 でもありました。
    人が見ていなければ、見つからなければ、何をやってもいいと考えるのは、昨今の個人主義の弊害です。
    昔の日本では、人が見ていようが見ていまいが、約束事は約束事、決まりは決まりです。

    たとえどんなに愛する女性であっても、たとえ口の堅い部下しかそこにいなかったとしても、 誰も見ていなくてもお天道様が見ている。そう考え、行動したのがかつての日本人です。
    だから義経は静御前に「都へ帰りなさい」と言ったのだし、御前もその義経の心中が分かるからこそ、禁制を破るより「殺してください」と頼んでいるのです。
    義経は泣いている静御前に、いつも自分が使っている鏡を、そっと差し出しました。

    「静よ、これを私だと思って使っておくれ。そして私の前で、もう一度、静の舞を見せておくれ」 愛する人の前で、静御前は別れの舞を舞います。
    目に涙を浮かべいまにも崩れ落ちそうな心で、静御前は美しく舞う。
    それを見ながら涙する義経。
    名場面です。

    静御前が舞ったときの歌です。
      見るとても
     嬉しくもなし
     ます鏡
     恋しき人の
     影を止めねば

    「鏡など見たって嬉しくありません。なぜなら鏡は愛するあなたの姿を映してくれないからです……」
    義経一行は、雪の吉野山をあとにしました。その姿を、いつまでもいつまでも見送る静御前。
    一行の姿が見えなくなった山道には、義経たちの足跡が、転々と、ずっと向こうのほうまで続 いています。
    文治元(一一八五)年十一月のことです。

    この月の十七日、義経が大和国吉野山に隠れているとの噂を聞いた吉野山の僧兵たちが、義経一行の捜索のために山狩りを行いました。
    夜十時頃、藤尾坂を下り蔵王堂にたどり着いた静御前を、僧兵が見つけます。
    そして執行坊に連れてゆき尋問しました。
    荒ぶる僧兵たちを前にして、静御前はしっかりと顔をあげ、

    「私は九郎判官義経の妻です。私たちは、一緒にこの山に来ました。
    しかし衆徒蜂起の噂を聞いて、義経様御一行は、山伏の姿をして山を越えて行かれました。
    そのとき、数多くの金銀類を私に与え、雑夫たちを付けて京に送ろうとされました。
    しかし彼らは財宝を奪い取り、深い 峰雪の中に、私を捨て置いて行ってしまったので、このように迷って来たの です」と述べます。

    翌日、吉野の僧兵たちは、雪を踏み分け山の捜索に向かいました。一方、静御前は鎌倉へと護送されます。
    鎌倉に護送された静御前は、厳しい取り調べを受けますが、義経の行き先は知りません。
    知らないから答えようもありません。
    やむなく頼朝は、彼女を京へ帰そうとしますが、このとき彼女が妊娠五カ月の身重であることを知ります。
    このため出産の日まで、静御前を鎌倉にとどめ置くことになりました。

    ─────────
    敵陣で舞う桜▼
    ─────────
    年が明けて四月八日、鎌倉幕府で源頼朝臨席の花見が、鶴岡八幡宮で盛大に執り行われることになりました。
    この日頼朝は、幽閉されていた静御前に、花見の席で舞を舞うことを命じました。
    なにしろ静御前は当代随一の神に通じる舞の名手です。
    けれど、それは、静御前からすれば、敵の真っただ中で舞うことになります。
    できる相談ではありません。

    「私は、もう二度と舞うまいと心に誓いました。いまさら病気のためと申し上げてお断りしたり、わが身の不遇をあれこれ言うことはできません。けれど義経様の妻として、この舞台に出るのは、恥辱です」
    そう言って、八幡宮の廻廊に召し出された静御前は、舞うことを断ったのです。

    それを聞いた将軍の妻、北 条 政子は、たいへん残念に思いました。
    新興勢力である鎌倉幕 府記念の鶴岡八幡宮での大花見大会なのです。
    「天下の舞の名手がたまたまこの地に来て、近々帰るのに、その芸を見ないのは残念なこと」

    政子は頼朝に、再度、静御前を舞わせるよう頼みます。
    頼朝は、「舞は八幡大菩薩にお供えするものである」と静御前に話すよう指示しました。

    単に、花見の見せ物として舞うのと、鶴岡八幡宮に奉納するということでは、舞う意味がまっ たく違います。神への奉納となれば、これは神事だからです。
    静御前は神に捧げる舞を舞う白拍子です。神事といわれれば断ることができません。

    静御前は着替えを済ませ、舞台に出ました。会場は鎌倉の御家人たちで埋め尽くされています。
    静御前は一礼すると、扇子をとりました。そして舞を舞いはじめました。
    曲目は、「しんむしょう」という謡曲です。
    歌舞の伴奏には、畠山重忠・工藤祐経・梶原景時など、鎌倉御家人を代表する武士たちが、笛や鼓・銅拍子をとりました。
    満員の境内の中に桜が舞います。
    その桜と、春のうららかな陽光のもとで、静御前が舞う。

    素晴らしい声、そして素晴らしい舞です。
    ただ……、何かものたりないのです。心ここにあらずなのです。
    続けて静御前は『君が代』を舞いました。けれど舞に、いまひとつ心がこもっていません。

    ─────────
    『君が代』のお話▼
    ─────────
    ここでもちょっと脱線します。『義経記』は、ここでたしかに静御前が『君が代』を舞ったと記述しています。『君が代』を軍国主義の象徴のように思っている方もいらっしゃるようですが、大東亜戦争よりも八百年以上前に、静御前がこうして舞った歌でもあるのです。

    『君が代』の初出は、『古今和歌集』です。巻七「賀歌」の巻頭歌として、「題しらず」「読み 人しらず」で掲載されているのが『君が代』です。
    『古今和歌集』は醍醐天皇の勅命で編纂され、延喜五(九〇五)年に奏上された日本初の勅撰和歌集です。『万葉集』に載っていない古い歌も収録されていますから、『君が代』は、すくな くとも千百年以上、場合によっては千四百年以上もの歴史のある歌なのです。

    さらに、『君が代』の「きみ」とは、漢字で書いたら「君」ですが、そもそも日本語は、一 音一音に深い意味が込められている言語です。
    「き」は男性、「み」は女性です。ですからイザナキ、イザナミであり、おきな(翁)、おみな(嫗)です。そもそも「女」とは、「おみな」が転じて「おうな」となり、そして「おんな」と なったものです。

    つまり「きみがよ」の「きみ」とは、き(男)み(女)であり、あなたと私、君とボクです。
    ですから、「君が代は千代に八千代に」は、「あなたと私の世は、未来永劫に」と読めるわけ で、だからこそ『君が代』はおめでたい賀歌として、江戸時代から明治初期にかけて、婚礼の 際に歌い継がれてもきたのです。

    伊邪那岐命(い ざ な きのみこと)、伊邪那美命(い ざ な みのみこと)の二神は、我が国の国土を産み、我が国の最高神である天 照 大 神(あまてらすおおみかみ)を産んだ神様でもあります。
    そしてその直系の子孫が天皇であることから『、君が代』の「きみ」は、我が国の男女を表すと同時に、天皇を表すとされています。
    そして我が国の男女は、天皇 と一体となって国家を形成しているわけですから、「きみ」とは、我が国そのものを指してい ることになり、だから国歌となっているわけです。
    『君が代』は、世界最古の国歌です。

    ─────────
    女ひとりで挑んだ戦い▼
    ─────────
    さて、話を鶴岡八幡宮にもどします。 どこか心の入らない静御前の舞に、場内がざわめきはじめます。
    「なんだ、当代随一とか言いながら、この程度か?」
    「情けない。工藤祐経の鼓がよくないのか? それとも静御前が大したことないのか?」

    会場は騒然となりました。敵の中にたったひとりいる静御前にとって、そのざわめきは、まるで地獄の牛頭馬頭たちのうなり声のようにさえ聞こえたかもしれません。普通なら、足が震えて立つことさえできないほどの舞台なのです。
    その静御前は、二曲を舞い終わり、床に手をついて礼をしたまま、舞台でかたまってしまいました。
    そのまま、じっと動きません。

    「なんだ、どうしたんだ」
    会場のざわめきが大きくなりました。
    それでも静御前は動きません。

    このとき御前は何を思っていたのでしょう。
    遠く、離ればなれになった愛する義経の面影でしょうか。
    このまま殺されるかもしれない我が身のことでしょうか。

    「二度と会うことのできない義経さま。もうすぐ殺される我が身なら、これが生涯最後の舞になるかもしれない。会いたい、会いたい。義経さまに、もういちど会いたい……」

    このとき静御前の脳裏には、愛する義経の姿が、はっきりと浮かんでいたのかもしれません。
    『義経記』はこのくだりで、次のように書いています。
    「詮ずる所敵の前の舞ぞかし。思ふ事を歌はばやと思ひて」
    (どうせ敵の前じゃないか。いっそのこと、思うことを歌ってやろう!)

    そう心に決めた静御前は、ゆっくりと、ほんとうにゆっくりと立ち上がりました。
    なにが起こるのでしょうか。
    それまでざわついていた鎌倉武士たちが、静まりかえっていきます。
    そして、しわぶきひとつ聞こえない静寂が訪れたとき、静御前が手にした扇を、そっと広げました。
    そして歌いはじめます。

     しづやしづ
     しづのをだまき
     繰り返し
     昔を今に
     なすよしもがな

     吉野山
     峰の白雪
     踏み分けて
     入りにし人の
     跡ぞ恋しき

    「いつも私を、静、静、苧環の花のように美しい静と呼んでくださった義経さま。
    幸せだったあのときに戻りたいわ。
    吉野のお山で、雪を踏み分けながら山の彼方に去って行かれた義経さま。
    あとに残されたあのときの義経さまの足跡が、いまも愛しくてたまりません……」

    歌いながら、舞う。
    舞いながら歌う。
    美しい。あまりにも美しい。
    場内にいた坂東武者たちは、あまりのその舞の美しさに、呆然として声も出なかったといいます。
    その姿は、まさに神そのものが舞っているように見えたとも伝えられています。

    この「しづやしづ」の舞を、静御前が白拍子だったから「賤」である、などと書いているものもあるけれど、とんでもない話です。
    義経は、静御前を「苧環の花」にたとえているのです。
    映画やドラマなどでは、いろいろな女優さんが静御前を演じ、私たちはその映像を見ます。
    けれど物語は千年前です。
    映画もドラマもありません。
    ですから昔の人は、文字だけで何とか美しさを表現しようと、その場面に背景や花を添えてイメージを伝えているのです。

    静御前は、苧環の花にたとえられました。
    背景は、満開の桜の花です。
    薄桃色一色に染まった背景の中で、一輪の苧環の青い花が舞うのです。
    このようにして物語を立体的な総天然色の世界として読み手にイメージさせるのが日本の古 典文学の特徴です。「賤」なんて、とんでもありません。

    静御前が舞い終えました。
    扇子を閉じ、舞台の真ん中に座り、そして頭を垂れました。会場は静まり返っています。
    およそ芸能のプロと呼ばれる人には、瞬時にして聴衆の心をぎゅっと摑んでしまう凄味があります。
    なかでも神に通じる当代随一と呼ばれた静御前です。
    しかもその御前が、愛する人を思って舞ったのです。

    どれだけ澄んだ舞だったことでしょう。
    想像するだけで、体が震えるほどの凄味を感じます。
    しかも、舞台は敵の武将たちのど真ん中。
    そこで静御前は、女一人で戦いを挑んだのです。

    会場には、またもうひとつの緊張がありました。
    源氏の棟梁である源頼朝と、名だたる御家人たちの前で、静御前が敵方の大将であり、逃亡中の義経を慕う歌を歌い、舞ったのです。

    静寂を破ったのは頼朝でした。
    「ここは鶴岡八幡である。その神前で舞う以上、鎌倉を讃える歌を舞うべきである。
    にもかかわらず、謀叛人である義経を恋する歌を歌うとは不届き至極である!」

    このとき、日ごろは冷静すぎるくらいの頼朝が、珍しく怒りをあらわにしたとあります。
    このままでは静御前は、即刻死罪となるかもしれません。
    けれど、これを制したのが、頼朝の妻の北条政子でした。

    「将軍様、私には彼女の気持ちがよく分かります。私も同じ立場であれば、静御前と同じ振る舞いをしたことでしょう」
    「ならば」と頼朝は言います。
    「敵将の子を生かしておけば、のちに自分の命取りになる。そのことは、自分が一番よく知っている。生まれてくる子が男なら殺せ」

    実は、このとき静御前は妊娠六カ月です。
    お腹の子は、もちろん愛する義経の子です。
    母親となる身にとって、生まれて来る子を殺されることは、自分が殺されるよりつらいことです。

    北条政子は言いました。
    「では、生まれてくる子が女子ならば、母子ともに生かしてくださいませ」
    同じ女として、政子のせめてもの心遣いです。
    頼朝は、これには、「ならばそのようにせよ」と言うしかありませんでした。

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    千年の時を超えてなお、日本人の心を震わせる物語
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    それから四カ月半後の七月二十九日、静御前は男の子を出産しました。
    その日、頼朝の命を受けた安達清常が、静御前のもとにやって来ました。

    お腹を痛めた、愛する人の子です。
    静御前は子を衣にまとい抱き伏して、かたくなに引き渡すことを拒みました。
    武者数名がかりで取り上げようとしたけれど、静御前は、断固として子を手放さなかったとい います。

    数刻のやり取りのあと、安達清常らはあきらめて、いったん引きあげました。
    安心した静御前は疲れて寝入ってしまう。
    そりゃそうです。初産を終えたばかりなのです。体力も限界だったでしょう。

    けれど御前が寝入ったすきに、磯禅師が赤子を取り上げ、使いに渡してしまいます。
    子を受け取った安達清常らは、その日のうちに子を由比ヶ浜の海に浸けて、殺してしまいました。

    目覚めて、子がいないことに気がついた静御前の気持ちはいかばかりだったことでしょう。
    「どうせ殺すなら、私を殺してほしかった」
    気も狂わんばかりとなった御前の悲しみが、まるで手に取るように伝わってきます。

    産褥の期間を終えた静御前は、九月十六日、鎌倉から放逐されることになりました。
    このとき、御前を憐れんだ北条政子は、たくさんの重宝を御前に渡し、京へと旅出するよう言ったといいます。

    その後の静御前については諸々の伝承があり、はっきりしたことは分かりません。
    北海道乙部町で投身自殺したというもの。 由比ヶ浜で入水したというもの。義経を追っ て奥州へ向かうけれど、移動の無理がたたっ て死んだというもの等々、列挙すればきり がないほど、たくさんの物語が存在します。

    静御前は、源頼朝の前で、堂々と愛する人を思う歌を歌い、舞を舞いました。
    これがどれほど危険な行為か、静御前も分かっていたと思います。
    そして、言うまでもなく頼朝の怒りを買い、子を殺されることになりました。

    なみいる鎌倉御家人たちの前で、彼らの目を釘付けにするほど美しい舞を舞うことが、愛す る義経の名誉を守ることになる。
    逆に、「大した舞などできないじゃないか」となれば、それ だけ義経は軽い存在でしかなくなる……。

    彼女は、自分が殺されることを覚悟のうえで、義経を慕う歌を歌い、舞ったのです。
    この物語は、いまから千年も昔の物語です。そして実話です。
    愛する人を慕う静御前の心、戦う勇気、子を思う親としての気持ち。
    敵側でありながら、静御前に深く同情を寄せる北条政子。
    義経の物語は、千年の時を超えて、いまも昔も日本人の心は変わらないものであることを教えてくれます。

    ※この記事は『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』第二巻に収録されています。

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    付録
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    生まれたばかりの赤ちゃんを取り上げた磯禅師(いそのぜんじ)は、静御前の母親です。
    鎌倉方の使いで来ていた安達清常(あだちきよつね)は、肚の座った男です。
    そこから私は99.999%の確率で、赤ちゃんは死んではいないと解いています。

    なぜ頼朝と北条政子は、たかだか赤子を取り上げるだけなのに安達清常という剛勇の御家人を選んだのか。
    そしてその剛勇の御家人である安達清常が、なぜ、静御前の抵抗の前に、すごすごと引き下がったのか。
    そしてなぜ、母である磯禅師が子を取り上げたのか。
    なぜ子を殺すのに、わざわざ由比ヶ浜まで行って、海に漬けて殺したのか。
    なぜ鎌倉を発(た)ったあとの静御前の行方がわからないのか。

    これらの疑問に対するもっとも合理的な解は、ただひとつ。
    「赤ちゃんは死んでいない」です。

    これはあくまで推測ですが、「生まれてきた子を殺せ」というのは、将軍である頼朝の命令です。
    この命令が不実行であれば、それは将軍の権威を損ねるものとなります。
    けれども、頼朝にとって静御前の子は、血を分けた実の弟の子です。
    つまり甥(おい)です。
    そしてつい近年まで、我が国は大家族制ですから甥から見た父の兄弟は、叔父(おじ)であって、叔父は実の父と同じ存在とみなされまていました。
    核家族で個人主義の現代とはこの時代の価値観は異なるのです。

    頼朝から見て、実弟の義経は、鎌倉に幕府を打ち立てるに際して、すでに邪魔な政敵です。
    ですからこれを討(う)たなければ、将軍としての頼朝の権威に傷が付きます。
    けれど、それは義経の罪であって、生まれてくる赤子にまで罪があるわけではありません。

    頼朝は静御前に舞を命じていますが、当時の感覚としては、弟の妻は、血を分けた妹と同じものです。
    義経が罪人であったとしても、その妻、つまり妹までが罪なわけではない。
    そして鎌倉幕府にとっての氏神様が鶴岡八幡宮で、そこでの奉納舞であれば、それは頼朝にとっても、その妻の北条政子にとっても、また御家人たちにとっても、極めて重要な神事です。
    その神事に静御前を用いたということは、その時点で、御前を敵とみなしているわけではなくて、かわいい妹であり、頼朝の身内とみなしていることになります。
    つまり、簡単にいえば、そこには身内としての愛があるのです。

    けれども立場上、頼朝は「赤子は殺せ」と命じざるを得ません。
    それをしなければ、頼朝の権威に傷が付くからです。
    そして赤子が生まれます。
    生まれた子は、血を分けたかわいい甥(おい)です。

    その赤子を取り上げ、さらに殺せと命じる。
    その役目を委ねられたのが、他ならぬ安達清常です。

    安達清常は、頼朝の最も信頼する部下のひとりで、御家人たちの人事を任せられた人です。
    いまの会社でいえば、社長の側近の人事部長です。
    しかも、たいへんに情が深く、武家に生まれたわけではないお百姓が幕府の高官となる道を開いた人でもあります。
    そして、安達清常の父は、流罪になった頼朝を助け、命を守ってくれた人でもありました。

    その人事部長の安達清常に、頼朝は静御前を預けています。
    つまり鎌倉幽閉中の静御前の住まいは、安達清常の家です。
    鎌倉での静御前の面倒の一切を安達清常が観ているのです。

    その静御前が、出産を目前に控えていた頃、京都にいた静御前の母が鎌倉にやってきました。
    それが磯禅師(いそのぜんじ)です。
    そして安達清常は、その母も一緒に自邸に住まわせています。

    出産の日、男が生まれたか女が生まれたか。
    このことを頼朝に報告する義務を負っていたのは、もちろん安達清常です。
    面白いことに、このときの報告は、安達清常は使いの者ではなく、自分で頼朝のもとに行っています。

    「ご報告いたします。静殿の子が生まれました。
    「どちらであったか」
    「男でございます」
    「ならばかねての指示の通りに」
    「はい。承知しました」

    おそらくそのような会話でしょう。
    命令は「殺せ」です。
    けれど安達清常が、言葉の額面通りに赤子を殺すような脳のない男なら、頼朝は大切な鎌倉御家人たちの人事を安達清常に委ねたりしていません。
    要するになぜ安達清常が選ばれたのかといえば、安達清常が、頼朝の命令を最も良い形で実現できる男だからです。
    それが上司と部下の信頼関係というものです。

    安達清常は、屋敷に帰ると、言葉通りに赤子の引き渡しを求めます。
    静御前は猛然と抵抗する。
    これは抵抗してもらわなければならないことですし、静御前からしてみればお腹を痛めた大切なわが子です。
    そして愛する義経の子でもあります。

    安達清常は、いったん引き下がり、母親の磯禅師に委細を話します。
    赤子は安達清常が預かること。
    そして、あとのことは任せてもらうこと。
    磯禅師は承諾し、赤子を安達清常に渡します。
    渡された安達清常は、殺すだけなら屋敷でも構わないのだけれど、わざわざ屋敷を出ていきます。
    そして由比ヶ浜で海水に漬けて殺したことにして、信頼できる人に赤子を預けます。

    そうとは知らない静御前は、失意の中で毎日を泣いて暮らす。
    そして母とともに、鎌倉から出ていくことを命ぜられます。

    母子ふたりで鎌倉を出て、峠を越えたところに、安達清常が立っています。
    静御前から見たら、安達清常は鬼にも悪魔にも見えたことでしょう。
    その安達清常のもとに、ふたりが近づきます。
    安達清常は、笑っている。
    そして、うしろに控えた女性に、たいせつに抱いている子を、静御前に渡させます。

    母子というのは、不思議なもので、どんなにたくさんの赤ちゃんがいても、自分の子はひと目でわかるものなのだそうです。
    静御前もまた、その渡された赤子が、たいせつな我が子とわかったのでしょう。
    赤子を抱きしめると、そのまま泣き崩れてしまいます。
    安達清常は、そのまま何も言わず、語らず去っていきます。

    一度は失ったと思っていた我が子が帰ってくる。
    しかし、静御前は、その子が我が子と名乗りをあげることはできません。
    そうであれば、磯禅師も静御前も、名を変え、見知らぬ土地でひっそりと暮らすしかない。

    こうして、静御前の消息は、以後不明となっていったのでしょう。

    歴史というのは、表面に現れた、書かれたことだけを読んでも、事実はわかりません。
    とりわけ我が国では、「〜と書いておこう」ということがよく行われた国柄でもあります。
    しかし、いろいろなことをつなげあわせてみると、意外と、「おそらくこうだった」というストーリーが見えてくるものです。

    頼朝も北条政子も、安達清常が「由比ヶ浜で海水に漬けて子を殺した」という説明を受けた時、安達清常が赤子を生かしたことを察したものと思います。
    海水に漬けて、海に流したのであれば、遺体の確認はできない。
    安達清常ともあろう武士が、トップの命令に対して、そのような遺体の確認もできないような始末をするはずもない。
    となれば、安達清常は赤子を流したことにして、生かしておいたということは、容易に察することができます。

    そうであれば、一日も早く母子を対面させてあげたい。
    けれど、産後の肥立ちの期間は、大切に寝かせておかないと、母体が危なくなります。
    だから、静御前の体力の回復を待って、すぐに鎌倉からの放逐を命じているのでしょう。

    日本という国は、どこまでも命を大切にする国柄です。
    けれど建前は建前として、たいせつにしていかないと、世の秩序が乱れます。
    その間にあって、ひとりの赤子の命を救った安達清常という武士は、まさに尊敬に値する武士であると思います。

    ※この記事は『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』第二巻に収録されています。

    お読みいただき、ありがとうございました。


    「大和心を語るねずさんのひとりごと」ブログより転載
    http://nezu621.blog7.fc2.com/

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