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棋士は体で将棋を指す

 人工知能が過去の棋譜を学習するとき、それは二次元の盤面情報を処理している。これは、今の技術レベルでは人間の能力を圧倒的に凌駕します。

 ところが、学習の成果を使って自ら機械を動かして人間らしい振る舞いをさせようとすれば、三次元の空間情報を処理しなくてはならなくなる。二次元から三次元への進展は、かなり難しいのだろうと思います。情報量が圧倒的に膨大で複雑になるからです。

 「人工知能+ロボット」という問題になります。

 この点について、棋士の羽生善治さんは『人工知能の核心』の中で、「人工知能ロボットの問題とは、人工知能開発が抱える課題に、物理の問題が追加されたもの」と表現しています。

 人工的にはまだあまりにも難しいこの問題を、我々人間は、心(知性や感情など複雑なものを含む)と身体の両方を持つことで、実に見事に克服できているように見えます。

 例えば、将棋の対局を進めることを、「将棋を指す」と表現する。聞き慣れれば何気ないようだが、「指す」という言葉には、明らかに身体の動きが関わっています。

 「指す」というのは、「指で駒を持って、盤にパチリと置く三次元の動き」です。ここには、盤面全体の形を俯瞰する視覚以外に、駒の大きさの触覚、パチリという音の聴覚、あるいは相手の表情や体の動きなどを感じ取る五感が総動員され、絶妙に関わっています。

 それに対して人工知能には、どの位置に駒を置くかという二次元の計算があるだけです。それで、人間同士が対局する場合は「将棋を指す」と言えるのですが、将棋ソフトと対戦する場合は、「プログラムの特長やバグを限られた時間とリソースのなかで見つけていく勝負」というふうに羽生さんは表現するのです。

 ここで、人間が心と身体の両方を備え、しかもそれらが絶妙な連携をもって、一人の人間として生を営んでいるということの意義と有り難さを、改めて考えさせられます。

 棋士ならば、頭の中で指す手を考えながら、頭を抱える、目をつむる、体を揺らす、うつむく、汗をかく、そして投了したときには頭を下げる。そういう動きを感情に合わせて自然に繰り出します。そして対局者はそういう動きをみながら、さまざまな感情が起こり、それがまた次の手に影響を与える。こういう全体をもって、これまでは「将棋を指す」と言ってきたのでしょう。

 だから、人工知能は知能的には強いかもしれないが、「人と将棋を指すよりもつまらない」と、大抵の棋士は感じるのです。

 体は心の指示を頭脳を通して忠実に実行する物理体とも言えます。一流アスリートのパフォーマンスを見ていると、物理体としての体の能力の高さには驚嘆するばかりです。しかし同時に、心は体からの感覚情報を楽しみにしてもいるでしょう。

 種類ごとに違う花の香り
 特定のものの特定の触感
 風が森の木々を揺らす音

 こういうものは、心自体では感じることができない。しかし体を通して感じた時に、嬉しくなったり、物思いにふけったり、昔の記憶を思い出したりする。

 キリスト教では神を絶対者と言ったり全知全能などと表現したりするが、無所不在(おられない所がない)でありながら、形、体がない。体がなければ100mを9秒5で走ることもできないし、鉄棒で大車輪をすることもできない。花の香りも嗅げず、山海の珍味を堪能することもできない。水泳で優勝して「超気持ちい~」と雄たけびを上げるような快感もあるまい。神にとって我々人間はまさに垂涎の対象であり得ます。

 我々は体を持っていることでどれほど大きな恩恵を受けているか、計り知れない。

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