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「模倣と独創の本当のありよう」

 小林秀雄本人の本ではないが、小林の文章をふんだんに引用しながら「近代」というものが抱える問題を掘り下げようとする『小林秀雄の警告』(適菜収著)が、一風変わっていて、面白い。

 引用は小林だけではない。ゲーテ、ベルグソン、本居宣長のほか十指にあまり、引用の総計はおそらく本書全体の3割から4割にはなるでしょう。

 私の印象では、本書が脚本なら、適菜の文章が「地の文」で、引用文が「台詞」。その台詞が実に適材適所に配置されてあまりにも雄弁に語りかけるので、時空を超えて一流俳優たちが勢ぞろいしたような感激がわくのです。

 適菜がこれほど大量の引用を堂々とするには、それなりの訳がある。「あらゆる文化はものまねである。独創は近代人の幻想にすぎない」という炯眼があるからです。そしてその観点は、実は、適菜が引用するすべての名優たちが主張する観点なのです。

 例えば、ゲーテがこんなふうに言います。

 「わたしのメフィストーフェレスも、シェークスピアの歌をうたうわけだが、どうしてそれがいけないのか? シェークスピアの歌がちょうどぴったり当てはまり、言おうとすることをずばり言ってのけているのに、どうして私が苦労して自分のものをつくり出さなければならないのだろうか?」(『ゲーテとの対話』ヨハン・ペーター・エッカーマン編著)

 そして、小林秀雄も同じ趣旨でこんなふうに喋る。

 「模倣してみないで、どうして模倣出来ぬものに出会えようか。僕は他人の歌を模倣する。他人の歌は僕の肉声の上に乗る他はあるまい。してみれば、僕が他人の歌を上手に模倣すればするほど、僕は僕自身の掛けがえのない歌を模倣するに至る」(『モオツァルト』小林秀雄著)

 そのように名優たちに喋らせた上で、適菜は言う。

 「私がこれまで書いてきた本は引用が多い。本書もそうである。自分で改めて書くよりもそちらのほうが早いし、正確であるからだ。内容に関しては100%、先人の知恵のパクリである」

 下手をすると剽窃師の迂闊な告白ともとれるようなこの一文は、しかし実は明確な信念に基づいているのです。

 多くの著作者はこれほどには先人の文章を引用しないでしょう。そんなふうにしては自分の独創性が疑われると考える。そして、自分が書くものは自分の頭の中から捻出された独創だと自負する。しかし実際のところは、適菜のように正直に引用しないだけで、その文章の大半は出典を明記していないか、あるいは出典を特定できない引用にすぎないだろうと思えるのです。

 昨今では著作権がうるさく、どんなアイデアでも自分の独創性を主張するのが主流ですが、本当の独創性などそんなにたやすく発揮できるものでしょうか。大抵は過去から積み上げられてきた知恵の模倣であり、小林が言うように、模倣を繰り返した挙句にやっと自分なりのものがわずか出て来るのが事実ではないか。

 科学者もノーベル賞を取るような発見発明をしても、それを自分の独創だとは考えないでしょう。視点は独自的であったかもしれないが、その独自的な目で見つけたものは元々自然の中にあって、これまで隠れていたにすぎないのです。

 科学的真理はそうかもしれないが、実は「思想」などというものもそれと大きな違いはないと思います。

 例えば、先年亡くなった哲学者池田晶子は、こんなふうに言っています。

 「自分一人で考えると独善に陥ると思うのは、考えることで人は自分の主張を獲得すると思っているからで、これが根本的な勘違い。逆です。
 自分で考えれば考えるほどに人は自分の主張を失う、いや正確には、『自分』というものを失ってしまう。なぜなら、関心は本当のことを知ることにあり、自分を主張することにはないからです。
 考える人が自分を失うとは、言ってみれば、考えることにおいて理性そのものと化すからで、理性というのは普遍性の別名です」(『暮らしの哲学』池田晶子著)

 彼女は、人は正しく考えれば自分の主張を失う、と言う。もう少し正確に言うと、考え抜いたことを主張はする。しかしその主張を「自分の考え」だとは思わないのです。

 自分が考えたことが自分の考えでなければ、それは一体誰の考えなのか。誰か特定の人の考えではない。理性というものが行き着くべくして行き着いた「普遍」というものだと言うのです。

 これはほとんど、科学的真理を求める科学者の姿勢と同じものです。正直に言えば、私は彼女ほどには理性の普遍性を信じられないのですが、それでも貴重な知見だとは思っています。

 池田の思考の土台は、間違いなくプラトン辺りにある。プラトンは「考えるとは想起することだ」と言いました。真実在(イデア)というものがあって、そこにあるものを正しく想い出すことが正しく考えることであると考えたのです。

 本当にそのようなことだとすれば、歴史上の名優たちは彼らなりに想起して、掴んだものを書き残した。後代の人はそれらを参考にして、もう一つ二つくらい新しいことを想起できればめっけもの。そのようにして歴史的に積み上がったものの上に、我々は立っている。

 それくらいの謙虚さを持つのが正常ではなかろうかと小林も言うし、適菜もそう考える。
 そして、そのように考えることを本当の「保守」と言うのだと、適菜はこの本の結論に述べるのです。

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