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共産党の政教分離綱領を裏切った那覇市共産党

チラシ一万三千枚全部配布できそうだ。ありがたい 感謝感謝
 沖縄タイムスか琉球新報の新聞に折り込むのを目的に一万三千枚のチラシを印刷したが、残念ながらタイムスに断られた。タイムスに断られたのだから新報にも断られるだろうと思い、新報には申し込まなかった。
 冷静になればタイムスに断られても仕方がないチラシであった。

 幸いに八重山日報の新聞には1100枚を折り込みすることができた。チャンネル桜沖縄支局に置いてあった1000枚は金城テルさんの知人が配布してくれた。これで2200枚は那覇市民に配布することができたが、新聞折り込み予定であった一万枚のチラシは配布することができないとあきらめていた。

 ところが一万枚を配布してくれる人が現れた。前の県知事選の時には県内中にチラシを配布したという人で、チラシを配布してくれる人を何人も知っているそうである。私のチラシなら彼らは配布してくれるという。私は一万枚を彼にお願いした。チラシが紙くずにならずによかった。感謝感謝である。

私が一万三千枚のチラシを那覇市民に配布する決心をしたのは金城テルさんが孔子廟の政教分離裁判で那覇市に勝訴した時ではなかった。その時はチラシをつくる気は全然なかった。
私がチラシをつくる決心をしたのは那覇市が控訴した時である。政治の世界だから色々な事情が生じてくる。那覇市の公園の一部を無償で貸与して孔子廟をつくらせたのには色々な事情があったのだろうから単純に非難することはできない。しかし、控訴となると別である。
孔子廟裁判は4年も続いた。4年間で那覇市の市長や議員は政教分離について勉強したはずである。そして、一審で憲法違反の判決が下った。控訴するには孔子廟の無償貸与は憲法違反ではないという確信がなければならない。

ネットで調べると神社に無償貸与して憲法違反であるという判決が下った事実があった。孔子廟と似たケースであり、孔子廟が政教分離に違犯していることは明らかであり、無償貸与しているのは憲法違反であることは否定しようがない。
一審の判決を覆すのは不可能であることが分かる。それにも拘わらず控訴したということは市長と議員は無責任である。那覇市民の知らないところで那覇市は控訴して、高裁でも政教分離違反の判決を受けてしまう。控訴した城間市長と議員への憤りと一人でも多くの那覇市民にこの事実を知ってほしいという思いが一万三千枚のトラシをつくらせたのである。
共産党は政教分離には厳しいと自負している
控訴した政党の中に共産党が存在する。日本の政党の中で一番政教分離を重視しているのが共産党である。
共産党は政教分離が民主主義の原則であり、政教分離の闘いは、中世のヨーロッパから始まったと説明している。

ヨーロッパでは、カトリック教会が世俗的な政治権力と結合して、民衆の思想と生活を支配していた。教会支配の体制に抗して、「宗教改革」がおこなわれたが、カトリック側も新教=プロテスタント側も政治権力と結んで異教徒を抑圧し、十六世紀フランスのユグノー戦争のような宗教戦争を繰り返し、社会的差別と流血の惨事を生んだ。
こうした歴史の教訓から、信仰の純粋さを保つには異なる信仰と宗派の存在に寛容でなければならない、政治権力は宗教的には中立でなければならず、宗教の側も政治権力と結合してはならないという原則が、民主主義的原則として確認され、近代の権利宣言や憲法にうたわれるようになったと共産党は説明している。

日本については次のように説明している。

日本は祭政一致の時代は長く続きました。近代に入っても、天皇制権力の支配を支えるために、神社神道(しんとう)が事実上国教化されて、国家神道という政教一致の体制がつくられ、国民は神社への参拝を強いられました。国家神道は、日本が「天皇中心の神の国」だという神国思想の柱となり、信教の自由をふみにじるばかりか、侵略戦争に国民を駆り立てる精神的推進力の役割を果たしました。
この反省にたって現憲法は、第二〇条、第八九条で信教の自由と厳格な政教分離の原則を定めました。とくに、二〇条一項後段は、「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」として、信仰の問題への国家のいかなる介入も許さないだけでなく、宗教の側に「政治上の権力」を行使してはならないことをもとめています。

共産党の歴史の説明には納得できるし、政教分離の主張には賛成である。神道が宗教であるというのは、その通りだと思う。

共産党は1996年7月13日の「自由と民主主義の宣言」で政教分離について次のように述べている。

「布教、伝道の自由をふくむ信教の自由を無条件で保障する。すべての宗教的行事は国家にとって私事とみなされ、いかなる公権力の介入もうけない。政教分離の原則を守り、国家は、どんな宗教にも特権をあたえず、かつ差別しない。宗教団体が政治権力の行使に参加することを認めず、また公権力の機関ないし国公立学校が宗教教育その他宗教的活動をすることを認めない。特定の思想や信仰を権力で押しつけたり禁止したりする、いかなるイデオロギー的強制も認めない」
共産党の説明には納得するばかりである。

政教分離に厳しい共産党は天皇の代替わり儀式に疑義を持っている。
共産党の志位和夫委員長は記者会見で、天皇陛下の退位に伴う新天皇即位の儀式について、憲法の国民主権と政教分離の原則に沿って見直すべきだと表明した。
「代替わり」というのは、「剣璽(けんじ)等承継の儀」「即位後朝見の儀」「即位礼正殿の儀」「大嘗(だいじょう)祭」などの儀式であるが、政府は1989年から90年にかけて行った「平成の代替わり」の儀式を国事行為や国家的行事として行った。今回の天皇の「代替わり」の儀式を踏襲しようとしていることが伝えられている。共産党は踏襲に疑義を発表したのである。
 共産党の志位和夫委員長は、
「提案は天皇制反対の立場ではなく、憲法の原則にふさわしい行事にすべきという立場からのもの」
と述べた。
志位和夫委員長は、前回の儀式が、明治憲法下の絶対主義的天皇制のもとで公布された旧皇室典範と登極令を踏襲したものであったと指摘し、いずれも、天皇神格化と国家神道を徹底する立場から、明治期につくられたものであり、いずれも、現行憲法のもとで廃止・失効しているというのが志位委員長の疑義の理由である。志位委員長の意見には賛成しかねる。
戦前と違い戦後は国民主権であり、天皇は象徴であると憲法で定めている。前回の儀式がたとえ明治時代に天皇神格化と国家神道を徹底する立場からつくられたものであったとしても、日本国憲法が施行されている戦後の日本では「代替わり」の儀式は宗教性がないと私には思える。しかし、共産党の志位委員長はは疑義を持つのである。そのくらい政教分離にこだわっているのが共産党である。
昭和41年には市立体育館の起工式が神式で行なわれるのは憲法20条で禁止されている宗教的活動を行なうものであり信教の自由が侵害されると共産党は訴訟を起こした。最高裁で起工式が神式で行なわれるのは政教分離違反ではないと判決したが、そのくらい共産党は政教分離に厳しいのである。
政教分離に厳しい共産党が孔子廟裁判ではおかしくなった
政教分離に厳しい共産党が一審判決で憲法違反であると判決が下った那覇市の孔子廟裁判では控訴に賛成したのである。控訴に賛成したということは那覇市が孔子廟に無償貸与したのは政教分離に違反しない。年に一回行われる孔子の霊を迎える儀式である釋奠祭礼は宗教ではないと主張することになる。
那覇地裁は孔子廟を管理している一般社団法人 久米崇聖会を宗教団体であると断定し、孔子廟保障貸与は政教分離に違犯するとの判決を下した。

久米崇聖会が宗教団体であることは名称からも推測することはできる。
久米崇聖会の崇は訓読みすると「崇める(あがめる)」である。意味は「この上ないものとして扱う。尊敬する。敬う」である。
聖は「聖(ひじり)」である。意味は「徳が高く、あがめられる人。天下を統治なさる方。天子。天下のことを知る人。聖人。卓越した学問・技能のある人。 高僧。僧。仙人。神仙」
※卓越した学問は普遍的な学問ではない。学問というものは批判し合い、正反合によって発展するのものである。久米崇聖会にとって論語は批判できるような学問ではない。崇める存在である。無論語を批判してはいけないのだ。論語は普遍的な学問ではなく。聖人孔子が論じた聖書であるのだ。
 久米崇聖会が宗教団体であるのは間違いない。

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孔子廟には孔子像が奉られている。それはキリスト教の教会で十字架のキリスト像を奉っているのと同じである。
久米崇聖会は宗教団体であり、孔子廟は神社やキリスト教会と同じ宗教建築物である。孔子廟で年一回行われる釋奠祭礼は孔子の霊を迎える儀式である。それが宗教でなくてなんなのだろう。

共産党は市立体育館の起工式が神式で行なわれるのを政教分離に違反すると訴訟を起こしたくらいに政教分離には厳しい。そんな共産党であれば孔子廟が政教分離に違反していると指摘するのが当然である。

今までの共産党は政教分離に違反していると国や市町村を告訴する側に徹していたが、那覇市の孔子廟裁判では孔子廟は宗教施設ではなく那覇市の無償貸与は政教分離に違反していないと主張して、憲法違反であると主張する金城テルさんに告訴される側になったのである。政教分離は民主主義の原点であるとする今までの共産党には見られなかった共産党の政治判断でふる。共産党が控訴に賛成したということは明らかに政教分離に違反している孔子廟を違反していないと主張したことになる。
今までの共産党にはあり得なかったことである。那覇市の共産党は共産党の異端であり、共産党でありながら共産党ではないというわけのわからない政党になったのだろうか。そんなことはないだろう。
共産党も与党になると優柔不断になるということかも
なぜ、共産党は那覇地裁で憲法違反であると判決が下った孔子廟裁判で憲法違反ではないと控訴する那覇市長側に回ったのか。本当に憲法違反ではないという確信があるから控訴したのだろうか。それは考えられないことである。今までの共産党であるなら孔子廟は神社と同じであり、那覇市の無償貸与は政教分離に違反していると主張したはずである。しかし、しなかった。それにはある政治的な事情がある
このポスターを見ればなるほどと思える。

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 去年の衆議院選挙の時のポスターである。立候補したのは共産党の赤嶺政賢氏である。赤嶺政賢氏の右側には城間幹子那覇市長、左側には翁長雄志県知事が居て三人ががっちりと握手しているポスターである。赤嶺氏は衆議院選挙区で当選した。共産党で唯一小選挙区で当選したのが赤嶺氏であった。

 那覇市が無償貸与して孔子廟を建設したのは翁長県知事が那覇市長の時である。無償貸与したのは翁長県知事なのだ。翁長県知事の後継者が城間幹子市長である。
 翁長知事の無償貸与を引き継いだ城間市長だから無償貸与は政教分離に違反していないと主張して、控訴に賛成した。そして、翁長知事と辺野古問題で共闘している共産党も城間市長と同じように政教分離に違反していないと控訴に賛成したのである。

 理路整然と政教分離の歴史を説明し、政教分離は民主主義の原則であることを党の綱領で強調した共産党であっても政治事情によって政治姿勢を簡単に変えるということがはっきりしたのが那覇市の孔子廟裁判である。
 イデオロギーの塊であり、一貫した論理を貫いているように見える共産党であるが、本当はそうではないことを那覇市で露呈した。

 「代替わり」に疑義を発表した志位委員長は那覇市の共産党が控訴に賛成したことををどんな風に理路整然と説明するだろうか。聞いてみたいものである。
 
 孔子廟裁判について意見を述べる評論家もいないし、憲法学者も居ない。憲法学者にとつて興味深いとおもうのだが、沖縄の憲法学者はきょうみがないのだろうか。妙である。
 地裁だから話題にしないのだろうか。しかし、憲法裁判である。であるなら地裁から注目してもいいと思う。なにか変である。
 
 ひとつはっきり言えることは名嘉氏の共産党は共産党の政教分離綱領を裏切ったことである。裏切りを共産党本部は黙認した。そういうことである。


「沖縄に内なる民主主義はあるか」より転載
http://hijai.ti-da.net/

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