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実は宗教問題に「すり替えられた」オウム事件

「宗教がいかがわしい」という議論ではなく、破壊活動を行おうとする者は早期に事前に潰さなければならないのだという議論が、いまだに生まれない。
このことは、そろそろわたしたちがしっかりと考えていかなければならないことです。

オウム事件の死刑囚への死刑が実行されました。
この件について、良かったと思うことがひとつ、気がかりがひとつあります。

良かったと思うのは、この件に関連して、かつてさかんに行われた「死刑廃止論」がメディアにほとんど出てこないことです。
さすがの汚鮮メディアであっても、オウム事件について「死刑はいかがなものか」とは言いづらいのでしょう。
逆に言えば、死刑廃止論というものが、もとをたどせば日本を乗っ取ろうとしていた一部の少数のかつての共産パルチザンたちにとって、仲間が処刑されることが許せないという、ただそれだけのものでしかなかったということです。

彼らの元いた国は、厳罰主義です。
犯罪者に対しては、たとえそれが政治犯であったとしても、いっさいの容赦はない。
徹底的に人間性を否定され、毎日のように暴行を受け、挙げ句処刑されるのが常識でした。

ところが、大陸や半島、済州島などで暴れまわった後に逃げてきた先の日本では、日本人は占領下に置かれて、武術も自警団も禁止されているし、もともと民度の高い日本では、厳罰さえも行われない。
犯罪集団にとって、これほど居心地の良い国はないし、仲間が捕らえられたら、死刑廃止、暴力反対、人道主義などと綺麗事を言うと、良心的な日本人は、すぐに騙されてそれに賛同してくれる。

戦後70年間、彼らはこの手口で、好き放題に日本を汚鮮してきたわけです。
けれどもこのオウムの事件では、上川陽子法務大臣の決断によって、見事に死刑が執行され、日本の司法の凄みを見せつけました。

ちなみに上川陽子法務大臣は、2015年にも法務大臣として闇サイト殺人事件で死刑判決を受けた死刑囚の死刑を執行許可しています。
この犯人は例によって名前がいくつもある殺人鬼で、それ以前にも愛知県内で普通に暮らす夫婦を殺害し、更に複数の殺人事件を重ねた挙げ句、闇サイトで知り合った仲間とともに名古屋市内で女性を連れ去って暴行の上殺害して遺体を遺棄したという、実にとんでもない男でした。

凶行を働く他、たいした収入も蓄えもなかったこの犯人に、とびきり優秀な弁護士が付いて、裁判が重ねられたのは、こうした悪行を働く馬鹿者たちを、自分たちの同胞として擁護する反日の汚鮮集団が付いていたからといわれ、こうした戦後にあった数々の凶悪事件が、最終的に死刑すら執行されないまま、いつまでも裁判で争い続けられたのは、すべて同じ集団を根にしているからといわれています。

誰がどう考えても悪行としかいえない凶悪事件で、幾人もの被害者が出ているようなものに対しては、国家として厳罰を持って臨むのは当然のことで、死刑は廃止どころか、私からすると、悪行を常態化しているような集団があれば、一網打尽に国外に追放するか、国内にいるなら少しの犯罪であっても、極刑に処するくらいのことがなければ、我が国国民の安全と安心は守られないと思います。

今回のオウムの死刑の件で、メディアや反日学会が死刑反対や、死刑廃止などを主張しないのは、これは良い傾向であると思います。
なお、安倍内閣のもとで、この執行が行われたことは、反安倍色を鮮明にしている日本に住んで日本人のような顔をして日本語を話す在日パルチザンたちからすると、悔しくて仕方がないことなのでしょうけれど、国際標準に照らしても、また我が国の伝統に照らしても、これは行って当然のことですし、それでいて彼らを黙らせたことは、ひとつは時代の流れであり、ひとつは現内閣の力であるものと思います。

ふたつ目の「気がかりなこと」というのは、相変わらずオウム事件が「宗教問題にすり替えられている」という点です。
オウムの麻原こと松本某が、怪しげな宗教団体を作って、信者に寄進をさせて個人的利得を図ったことは事実です。
オウム事件のあと、教団が分裂し、3つの教団に別れていますが、彼らにはすでに日本を武力闘争によって転覆させるだけの戦力も力も資金もありません。

もちろん公安警察によって監視を続けることは必要でしょうし、わが町に彼らの教団施設がやってくるとなれば、もちろん大反対ですけれど、最大の問題は、オウムが何を教え、何を信じる教団であったかにあるのではなくて、彼らが自己の目的を遂げるために、無差別殺人を行っただけでなく、毒ガスやミサイル、挙げ句は戦車やヘリコプターまで準備して、武力闘争によって日本国家の転覆を図ろうとしていたことによります。

つまり、オウムの問題は、その宗教性にあるのではなくて、彼らが松本智津夫の命ずるままに破壊活動を展開しようとし、その一部を成功させて人の命を奪ってきた点にあります。

最終的にオウム事件では、彼らが大規模な破壊活動を展開する前に、強制捜査が入り、幹部を一斉逮捕し、また彼らの武装をことごとく取り上げることに成功しましたが、このように、あらかじめ武器や兵器を隠し持って、武力革命を標榜するような集団は、実は、オウム以外にもあるわけです。

ところがオウム事件当時、某ジャーナリストの男性が、しきりにメディアに登場して、オウムの宗教性をさかんに強調していました。
その男性は、いまや国会議員となって、反日主義であることを隠さなくなりましたが、要するに彼らは、仲間のオウムがヤバイとなったときに、逆にオウムを攻撃する側に回って、兎にも角にも「破壊活動を準備する暴力集団そのものを規制しなければならない」という論調にならないように、オウムの宗教性だけに世論を誘導したわけです。

おかげでいまもなお、本来議論となるべき、
「暴力を前提に破壊活動を目論む集団は凶行に走る前に根絶やしにしなければならない」
という議論が、いまだにまったく行われていません。

思想信条は自由ですし、何を宗教として信じようが自由ですが、そのために人を殺したり、大量殺人のための準備をしたりすることは、これは国民生活の安全と安心を脅かすものであって、厳しく封じ込めていかなければならないことです。
なぜなら、サリンガスなどを散布された後では、取り返しがつかないからです。

およそ国家というものは、国民が豊かに安全に安心して生活ができるようにするためにこそ、存在しているものです。
これは私が述べていることではなくて、古事記日本書紀に書かれた我が国古来の知恵です。

そのようにして国民生活が守られてはじめて、国民の誰もが愛とよろこびと幸せと美しさを希求することができる社会が形成されるのです。
いつ、サリンガスをばらまかれるかわからない。
いつ、水道水に毒物を混入されるかわからない。
いつ、鉄道が破壊されるかわからないなどといった、恐怖のある国など、けっして「喜びあふれる楽しい国」とは言いません。

国家の役割は、まさに「喜びあふれる楽しい国」を実現するために、国民生活の危険を取り除き、誰もが平和で安全で安心して暮らすことができるようにしていくことにあります。

そうであれば、はじめから国民に危害を加えることを目的とするような集団は、国家として断固規制すべきだし、そのためにこそ、国民は国家の政府に国家権力を与えているのです。

「宗教がいかがわしい」という議論ではなく、破壊活動を行おうとする者は早期に事前に潰さなければならないのだという議論が、いまだに生まれない。
このことは、そろそろわたしたちがしっかりと考えていかなければならないことです。

お読みいただき、ありがとうございました。


「大和心を語るねずさんのひとりごと」ブログより転載
http://nezu621.blog7.fc2.com/

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