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小林秀雄と岡潔の“直観と確信の雑談”

 大学生の頃に愛読した本が地元の小さな本屋の書棚に、薄っぺらい文庫版になって並んでいるのを見つけた。

 『人間の建設』(小林秀雄・岡潔)

 「新装になって久しぶりにお目にかかります」と言っているようです。これはもう買うしかない。本の裏表紙には、「日本史上最も知的な雑談」と謳っています。

 確かに、自由な雑談の魅力は横溢している。しかし「知的」と言えば、それはちょっと違う気がします。

 小林は岡の文を読んで、「あなたは自分の確信したことしか文章に書いていない」と評する。すると、「確信しない間は複雑で書けない」と岡は答える。

 2人の雑談はまったくこの受け答えの通りで、「直観と確信の雑談」と言ったらいいように思います。

 岡の話は、小林が指摘する通り、「理論とは言えない、一つのビジョン」です。

 この雑談は、岡の数学者らしい直観から出てくる一種独特なビジョンを小林が普通人に分かるような言葉に翻訳しようとするやり取りで進む。

 この雑談には取り上げたいビジョンがいくつもあるのですが、私にとって最も興味深いものを一つだけ紹介してみます。

 岡のビジョンの核心の一つが、「情緒」であることに間違いはない。

 それをこんなふうに説明しようとします。

 赤ん坊をよく観察していると、生後32カ月頃まで「時間」の観念がない。生まれてから32カ月までは、時間というものがなく、また自他の区別もない。

 自他の区別がないから、母親と自分の区別もない。つまり、赤ん坊は今自分を抱いてくれている母親を別人だと思っていない。ところが、自他の区別はないのに、親子の情はあるように見える。

 この時期の赤ん坊の内面を、「のどか」と言い、仏教の言葉で言うと、「涅槃」と言うのです。

 この時期に形成されるものを、「情緒」と呼びます。

 だから、情緒には自他の区別も時間の観念もないのに、親子の情だけはある。これが基になって、その後時間の観念が生まれ、自他の区別ができていく。すると、その子の周りに森羅万象ができて、彼なりの一個の世界が出来上がっていく。

 しかし、きちんとした情緒があれば、彼の世界の基本は「のどかな涅槃」として保たれる。そして、これが文化を支えるようになれば、その文化は健全な文化として保たれ得る。

 岡は大体こんなことを話すのですが、小林はそれを、「理論ではなく、ビジョンだ」と言うのです。もちろんこれは、貶そうとする意図ではなく、このビジョンにとても惹かれている。

 「あなたのビジョンはたいへん美しくおもしろいと思う」
 これが小林が惹かれる理由です。私もまったく同感です。そして、美しいものには大抵「正しさ」も随伴すると思うのです。

 このビジョンを「正しい理論」に仕立てていくのは、容易でないかも知れない。しかし、岡の直観と確信に基づいたビジョンなので、聞く人を惹きつけるのです。

 情緒には自他の区別がないので、数学で言えば、「一の世界」です。「一」は最小の数字に見えながら、その実、その中に最大の「全体」が含まれている。

 例えば、人が座った状態から立ち上がろうとする。その時、全身400余りの骨と筋肉がさっと統一的に働く。これが「一」というものです。こんなことを我々は日常意識もせず、何気なく行っているのですが、改めて考えるとまったく不思議です。

 32カ月をはるかに過ぎた身ではありながらも、我が情緒、いささかでも磨けないかと思案してみるのです。

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