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第二小移転中止を宜野湾市のPTAや市民に擦り付ける琉球新報

 12月28日の琉球新報に「沖縄基地被害 続く無理解 ヘリ部品落下の学校や保育園への中傷 『負けないで』と激励も」の記事が掲載されている。

 普天間第二小学校に米軍ヘリの窓枠が落下した事故について、同校へ「やらせだろ」という電話があり、「沖縄は基地で生活しているから、ヘリから落下物があって、子どもたちに何かあってもいいじゃないか」「学校を後から造ったくせに文句を言うな。戦闘機と共に生きる道を選んだくせに文句を言うな」という中傷の電話があったと新報は書いている。新報が指摘している通りひどい中傷である。そんな中傷はあってはならない。

 新報は「中傷はいずれも根拠のないものだ」と述べ、「普天間飛行場が建設された土地には戦前、約1万4000人が住んでいた。沖縄戦で上陸した米軍は住民が収容所にいる間に土地を占拠し普天間飛行場が造られた」と、普天間飛行場が建設された土地には約1万4000人が住んでいたことを述べている。しかし、新報が指摘している、普天間飛行場の土地に1万4000人住んでいたということには疑問が残る。

 宜野湾市の人口推移を調べると、昭和15年(1940年)の宜野湾市の人口は 1万2825人である。だとすると、宜野湾市の住民は全員普天間飛行場内に住んでいたことになり、普天間飛行場外には誰も住んでいなかったことになる。そんなことはないだろう。もし、そうであれば、宜野湾市は普天間飛行場以外は人が住めないような土地であるということになる。しかし、そうではないことが昭和25年の人口調査で明らかになる。

 宜野湾市の昭和25年(1950年)の人口は1万5930人である。昭和25年にはすでに戦前の人口を超えているし、普天間飛行場はあった。しかも普天間飛行場周辺のクリアゾーンには住宅もなければ公共施設もなかった。普天間飛行場以外の土地に戦前の人口よりも多く住める土地はあったのである。
 だから戦前、普天間飛行場内に住んでいた人たちは普天間飛行場のクリアゾーン外の土地に住んでいたのである。米軍が普天間飛行場を占拠しても宜野湾市民が宜野湾市に住むのに困ったことはなかったのである。

 昭和25年以後の宜野湾市の人口はどんどん増えて平成24年(2012年)には9万3189人になる。人口増加の原因は他の市町村の住民が宜野湾市に移住したからである。もし、移住がなければ昭和25年からの急激な人口増加はなかった。普天間飛行場の周囲のクリアゾーンに住宅や公共施設が増えることもなかっただろう。

 普天間第二小は1969年4月に開校した。他市町村からの移住による人口増加によって普天間小学校の生徒が増えたためだった。昭和45年(1970年)の宜野湾市の人口は3万9390人になっており、昭和25年より1万人も増えている。人口が増えていくと普天間小学校の生徒も増えた。そのために宜野湾市は普天間飛行場のクリアゾーンであった軍用地を米軍と交渉して返還させた。第二小の敷地は実はすべて軍用地だったのである。

 普天間飛行場の周囲のクリアゾーンに住宅や公共施設が増えたのは他市町村からの移住による人口増加が原因なのであって、戦前宜野湾市民が住んでいた土地に普天間飛行場を建設したからではなかった。新報はその事実を隠している。都合の悪いことを隠すことによって新報の主張は成り立っている。

 新報は80年代に学校移転が議論され、用地取得のための財源の補助を国に求めたものの断られたと述べている。しかし、本当は移転に反対する沖教祖や左系政党、団体の反対が根強く、宜野湾市で移転案をまとめて積極的に国に要求することができなかったのが理由である。

 新報は「市は移転先としてキャンプ瑞慶覧の一部返還を求めたが、米軍は小学校跡地の提供を条件にした。結局、市やPTAは移転要求を断念し、同じ場所で老朽化した校舎の建て替えることになった」と第二小が移転できなかったことを述べている。注目することは、市やPTAが移転要求を断念した理由が米軍が「小学校跡地の提供を条件にした」と新報は述べていることである。新報が指摘した通り、市やPTAは第二小跡が米軍用地になることを嫌って第二小移転を断念したのである。

 もし、米軍が第二小跡を米軍用地する条件をつけなかったら、第二小は移転していたと思うが、第二小跡を軍用地にしなかったら、宜野湾市は第二小跡に新たな公共施設を建てるか、住宅にしただろう。ヘリの窓枠は公共施設か住宅に落下して運動場に落下した時よりも大きな被害があったかも知れない。第二小跡を米軍用地にしてクリアゾーンするという米軍案の方が第二小の生徒や宜野湾市民の安全を守る正しい判断なのであった。新報はそのことを指摘しない。都合の悪いことの説明は避けて、「米国の安全基準では滑走路の両端に危険を避けるために土地を利用しない『クリアゾーン』を設けるように定められている」と別の問題に転換して、「不適格な飛行場」であると「正しい」指摘をするのである。

 新報の記事で、第二小を1キロメートル離れた軍用地に移転し、第二小跡地をクリアゾーンにしようとしたのが米軍であり、クリアゾーンにするのに反対したのが市やPTAであることが分かった。クリアゾーンをつくろうとしたのは米軍であり、クリアゾーンを住宅や公共施設にしたのが宜野湾市側であることが、第二小の移転問題であったのである。

 第二小を移転して跡地をクリアゾーンにしなかった原因は市やPTA、と新報は書いているが、本当は市やPTAではなく普天間飛行場の閉鎖撤去を主張している左系の政治家、活動家、市民であった。左系の連中を新報は市やPTAと表現しているのである。キャンプ・シュワブで辺野古飛行場建設阻止運動をしている左系の連中を市民と表現していることと同じである。

 ヘリ基地反対協の安次富浩共同代表はキャンプ・シュワブの抗議の座り込み5000日集会で、「われわれは、辺野古リーフ沖の海上基地建設を断念させた」と演説をした。安次富共同代表が言ったように、左系の辺野古移設反対派が辺野古沖飛行場建設を阻止したから、現在も普天間飛行場が宜野湾市のど真ん中に存在し、第二小の運動場にヘリの窓枠が落下したのである。

 辺野古沖の飛行場が10年間で完成すると想定すれば、2014年には完成していた。普天間飛行場はすでに閉鎖撤去して、宜野湾市に普天間飛行場はなくなっていた。飛行機やヘリの騒音はなくなり、第二小への窓枠落下も起こらなかった。

 だから、2014年以後の普天間飛行場の被害は普天間飛行場閉鎖撤去を主張する左系連中にあると言える。彼らが第二小への窓枠落下事故を起こさせたのである。

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